研究

歴史から紐解く自然災害の記憶

西川 広平/中央大学文学部准教授
専門分野 日本中世史

1.自然災害の歴史を学ぶ意義

 平成の時代が終焉を迎えようとする昨今、その時代を振り返る企画をマスメディア等で目にする機会が増えている。人それぞれが抱く時代のイメージは千差万別であるが、地球規模で自然環境の変動期を迎え、阪神・淡路大震災(1995年)や東日本大震災(2011年)、いわゆる西日本豪雨(2018年)等、数多くの自然災害が日本列島を襲う中、人々が自然の脅威に向き合い、自らの生活や社会の価値観を見直す時代であったともいえよう。

 現代を生きる私たちは、科学や産業の発達とともに自然環境を人間がコントロールできると無自覚に信じ込んできた。このため、自分たちが予期しない自然災害が起こると、「百年に一度の災害」等と言い、その脅威の前にともすれば成す術を失う場面も見受けられる。

 しかしながら、歴史を紐解けば、日本列島に暮らす人々は繰り返し大規模かつ多様な自然災害を経験してきた。自然災害に遭遇した際、当時の人々はどのように対応してきたのか。また、災害に備えてどのような知恵や技術を育んだのか。これらの問いへの答えを模索することにより、私たちは自然災害への対応を、現代の価値観とは異なる次元から学ぶことができる。そして、この模索こそが自然と人との新たな関係を生み出す原動力ともなるのではないだろうか。こうした思考を踏まえて、自然災害への対応の歴史を探ってみよう。

2.史料に見る自然災害への対応

信玄堤と釜無川
木々に覆われた現代の堤防の奥に、戦国時代以来の堤防「本土手」がある。

 舞台は16世紀、戦国時代の甲斐国(山梨県)。標高3000メートルを越える赤石山脈(南アルプス)や八ヶ岳連峰、御坂山地等、四方に聳え立つ山々に囲まれた甲府盆地に、釜無(かまなし)川、笛吹川を始めとする河川が流れ込む。豊富な水資源に恵まれる一方、盆地がかつて湖であったとする湖水伝説が中世に語り継がれたほど、この地域は洪水の常襲地域であった。

 湖水伝説の主人公であり、盆地南部の山を開削して水を流したと伝わる治水の神「国建(くにたて)大明神」は、釜無川の支流である御勅使(みだい)川を遡った、盆地西部の苗敷山(韮崎市)に祀られた。それに対して盆地の中央部では、「稲積地蔵」と呼ばれる豊作をもたらす仏を主役とするもう一つの湖水伝説が伝わった。15世紀以前の作成と推測されている『地蔵菩薩霊験記』や『地蔵菩薩三国霊験記』に記された、稲積地蔵が洪水のため苗敷山付近から盆地中央部へと流れてきたという説話を踏まえると、この二つの湖水伝説は本来同一の伝承であり、かつて盆地の中央部へと流れていた釜無川流域に広がった、治水や豊作をもたらす神仏への信仰を起源として誕生したと考えられる。

信玄堤絵図(山梨県立博物館蔵)
貞享5年(1688)に描かれた信玄堤の絵図の写。絵図上方(東)に流れていた釜無川の流路を堤防で堰き止めた。

 このような甲斐国の風土において、戦国時代にこの地域を治めた戦国大名武田家のもと、盆地中央部へと流れていた釜無川を堰き止めて流路を変更し甲府方面の水害を防ぐ役割を担った堤防が、1560年頃に築造された竜王(甲斐市)の信玄堤である。信玄堤の築造は、18世紀に至るまで続いた盆地の景観が変化するほどの大規模な治水工事の端緒となった。

 こうした信玄堤を洪水から守り抜いてきたのは、地域社会に暮らす人々であった。例えば、1563年と推定される年の7月6日、武田家は「当水」(洪水)を退かせるため、現在の甲府市とその周辺に属する15か村から人足を動員して工事を行うよう命ずる朱印状を作成した(保坂家文書)。江戸時代には、釜無川の増水により信玄堤が決壊した際、竜王村が「御朱印」に従って各村々に書付を廻し、人足の動員を催促していることから、この朱印状は、武田家が信玄堤の地元である竜王河原宿(竜王村)に宛てた古文書であると考えられる。

甲府盆地地図
戦国時代から江戸時代にかけての甲府盆地には、釜無川が幾筋にも分かれて流れていた。図中の①~③は、信玄堤における治水工事に人足の動員が命じられた地域。
※『水の国やまなし―信玄堤と甲斐の人々―』(山梨県立博物館、2013年)掲載図を一部加工。
※国土地理院発行25,000分の1地形図「甲府北部」「甲府」「市川大門」「韮崎」「小笠原」「鰍沢」を編集して使用。

 ここで、古文書に記された村々を地域ごとに見ていくと、①信玄堤下流の釜無川流域、②信玄堤下流で釜無川と合流していたと推定される貢(く)川流域、③信玄堤上流の赤坂台地・茅ヶ岳山麓地域の3地域に区分される。このうち①は信玄堤の決壊により直接水害が発生する地域、また②は釜無川の水量がオーバーすると、貢川の水が釜無川に合流できず氾濫する恐れがあったと考えられる地域である。これは、2018年7月のいわゆる西日本豪雨で、岡山県倉敷市真備町を流れる小田川が合流先の高梁川の増水により洪水となった状況と類似しており、バックウォーター現象が発生したと推測される。

 それでは、③は信玄堤とどのような関係にあるのか。③は信玄堤より上流かつ高台に位置し、信玄堤が決壊して洪水が起きても直接的な被害は生じない。しかしながら、信玄堤の地元竜王村の住民には、戦国時代に③から移住した人々も含まれ、江戸時代には竜王村も、③に属し人足の動員を命じられた保坂惣郷(穂坂郷)を構成する村として認識されていた。このため①、②のように洪水の被害を受けなくても、③に暮らす人々は地域の連携を重んじて人足の動員に応じたのであろう。目を現代に転じると、近年では自然災害時の救助や復興を被災地の人々が主導して行うことの限界も指摘されており、自治体間で災害救助・復興支援の協定を締結し、被害を受けていない自治体が被災した自治体を支援する体制づくりが進められている。③が信玄堤の決壊時に人足を派遣したことも、視点を変えれば戦国時代版の被災地支援のあり方と言えるだろう。16世紀の甲府盆地では、地域社会の広範かつ多様なネットワークにより、治水への対策が実施されていたのである。

3.前近代における自然観の転換

 ところで、前近代の人々はどのような思想を持って治水に臨んだのであろうか。17世紀には竜王信玄堤の下流に「かすみ堤」と呼ばれる不連続の堤防群が存在したが、19世紀に編纂された『甲斐国志』によると、かすみ堤は18世紀に連続堤が設置される以前の釜無川の堤防であり、洪水時に堤防間の途切れ目から適宜排水された結果、堤防本体が決壊せず大規模な水害を回避できたという。一方、18世紀に現代と同様の連続堤が設置された結果、河床に砂礫が堆積して天井川化し、コストのかかる堤防の嵩上げが必要になるとともに、増水時に堤防が決壊すると河床に堆積した大量の砂礫が流出して、長期間に渡り被害が継続したという。

 このように、17世紀までは一定度の被災を許容しつつも、大規模な災害の回避を目的とした治水対策が実施されていた。すなわち、戦国時代までには河川の中州等の耕地化が一部で進展していた甲斐国の人々は、自然災害の発生を想定した上で、日常生活や土地利用を設計していたのである。ところが18世紀以降の治水対策は、土木技術の発展により自然災害の封印をめざす全面的な防災体制へとシフトしたと考えられる。それは、河原を耕地化して生産力の向上を図る江戸幕府の政策を踏まえた措置であったが、生産性や効率性を重視して人間による自然環境のコントロール化をめざす、現代の開発に通じる施策であった。やがて、人々はいつしか自らの力が及ばない自然の脅威を忘れ、自然災害の発生を予期せず開発を進めた結果、被害はより大規模化し、社会に大きな犠牲が生じたといえよう。

 新しい時代を目前にした今、私たちは歴史を通して自然に対する現代社会の認識を見つめ直し、改めて自然と人との「調和」について考える必要があるのではないだろうか。

参考文献
  • 西川広平「戦国期における川除普請と地域社会―甲斐国を事例として―」(『歴史学研究』889、2012年、同著『中世後期の開発・環境と地域社会』高志書院、2012年に再録)。
  • 同「甲斐国湖水伝説の成立について」(『山梨県立博物館研究紀要』8、2014年)。
  • 同「戦国期の地域寺社における井堰築造と地域景観―甲斐国 窪八幡神社を対象にして―」(『紀要』史学31、中央大学文学部、2018年)。

※本稿は、科学研究費補助金(基盤研究(C))の交付を受けて行った研究成果の一部である。また山梨県立博物館における調査研究活動の成果の一部である。

西川 広平(にしかわ・こうへい)/中央大学文学部准教授
専門分野 日本中世史
神奈川県出身。 1974年生まれ。 1996年 中央大学文学部卒業。
1998年 中央大学大学院文学研究科 博士前期課程修了。
2011年 中央大学大学院文学研究科 博士後期課程修了。 博士(史学)中央大学
学芸員として山梨県立博物館や富士山世界遺産センターの建設・運営を担当し、2017年より現職。
日本中世の村落史、環境史(特に水資源がテーマ)や、武士団のネットワークおよび由緒の形成過程などを研究課題としている。
また、主要な著作として、『中世後期の開発・環境と地域社会』(単著、高志書院、2012年)や『甲斐源氏 武士団のネットワークと由緒』(編著、戎光祥出版、2015年)などがある。