伊藤 壽英【略歴】
伊藤 壽英/中央大学法科大学院教授・日本比較法研究所所長
専門分野 商法、有価証券法、比較法
2018年1月23日、茂木敏充・経済財政・再生担当大臣は、環太平洋経済連携協定(以下「TPP」という)の締結に向けて、同年3月に参加国の署名式を行う旨を明らかにした[1]。政府の試算によれば、世界のGDPの4割、人口の1割を擁する巨大な経済圏が構築され[2]、その経済効果は、EUとの経済連携協定と合わせて、約13兆円と試算されている[3]。
周知のように、わが国の製造業はグローバル競争の激化とアジア地域の成長を背景に、製造拠点のアジア展開を進展させ、アジア規模でのサプライチェーンを構築している。TPPの締結は、このようなグローバルなサプライチェーンの展開にも好影響を及ぼすであろう。他方で、グローバルな企業取引の展開がますます発展していくと、それに付随する法的紛争の解決についても公正かつ適切な処理が求められる。本稿では、国際的なサプライチェーンを念頭に、取引実態の把握と国際的な契約ルールの形成について考察する。
コントラクト・ガバナンス(Contract Governance)とは、Grundmannフンボルト大学教授、Mösleinマールブルグ大学教授およびRiesenhuberボフム大学教授らが、契約法領域における諸課題に取り組むための概念枠組みとして設定したものである[4]。そこでは、現代的な企業取引の特徴である長期的視点、ネットワーク関係、国際性を基礎に、取引社会の社会規範形成の実態を理解し、それらが契約規範にどのように組み込まれるべきかを探求するものとされる。取引社会の実態分析においては、たとえば制度経済学、不完備契約と関係的契約論、ネットワーク契約論、法規制と私的な秩序形成、秩序自由主義、行動経済学といった学際的な知見を統合することとし、契約規範の創造においては、現代的企業取引において契約設計をする者、経営上の意思決定をする者、法政策を担当する者といったすべての関係者にとって有用な規範枠組みを提供することを目的としている。
わが国でも、取引社会の実態解明と契約規範の形成に関する研究はさかんである。たとえば、取引主体が自発的に参加する共同体を前提として、内部的な関係性から形成され、共有される規範を実定法において体系化する関係的契約理論の試みがある[5]。また、日本の契約実務を分析し、契約書面で了解された合意が、取引環境の変化から妥当性を喪失したとき、事後的な調整を促し、新たな契約合意を創出する社会規範の存在を指摘するものがある[6]。同様の学問的関心から、2017年度日本私法学会においても、「日本的取引慣行の実態と変容」というテーマが取り上げられ、これまで日本的契約とされてきた特徴が、近時の技術革新や国際化によってどのように変容してきたかが検討されている[7]。
以上のように、「コントラクト・ガバナンス」という枠組みを設定し、取引社会の実態と契約規範の形成という課題を総体的に扱おうとする点では、わが国の研究関心とも共通すると考えられる。
制度経済学の始祖の一人であるJohn R. Commonsは、企業取引を「集合的な取引(transaction)」と理解する。わが国の民法のもとでは、契約は、当事者の申込みと承諾で成立する、二当事者の固定的な取引関係を想定する。これに対し、Commonsは、市場における単発の交換的取引(売買契約)でさえも、売主・買主の双方に、潜在的な取引相手が存在するから、「契約」を考える場合には、最低、この4者を想定した法の運用を必要する、と解する。さらに、この「取引」は継続的・長期的性質を有すること、集合行為の問題が存すること、複雑な利害関係の対立を解決するために権威者が必要であるから、ここでいう「取引」の当事者は5者を想定すべきこと、などを主張する[8]。ここでいう「取引」の特徴は、本稿の主題である国際取引にも共通するが[9]、そこで生じた法的紛争の解決については、国内裁判所のような権威者が存在しない点が異なっている。そこで、ウィーン国際売買条約やUNIDROIT国際商事契約原則のような統一法・統一モデルの役割を期待することとなる。
他方で、法系の違いを超えて、国際的な統一モデルに向けての比較法的研究が必要であり、実際に成果を上げつつあるとの指摘もある[10]。そこで、以下では、わが国における企業間連携契約の議論を紹介し、グローバルなサプライチェーンのような取引関係にも応用できる可能性を指摘したい。
企業間連携契約とは、一定の戦略目的を共有する独立した企業相互が、その目的の実現のために経営資源の交換を内容とする有機的な結合を築きつつ、共同事業性のある企業活動を促進するものをいう[11]。そこでは、長期的な視点から、財やサービスの供給が継続的に行われること、多様な取引主体が多角的に参加していること、それぞれの取引関係が相互依存的であること、契約締結後の環境変化に機動的・柔軟に対応すべきこと、といった特徴がある[12]。
これらの特徴は、前述したコントラクト・ガバナンスの対象となる契約やCommonsの集合的取引とも共通する。サプライチェーンのように、一定の事業目的が戦略的に設定され、ネットワークによって密接に結合しつつも、企業としての独立性を維持している場合もある。しかしながら、たとえば生産目標を複数のメンバー企業に割り振る場合には、あたかも一企業内における生産過程と、経済的に同視することができる。したがって、企業組織内において、一定の権限関係のもとで指揮命令系統があるように、生産計画をたて、品質・納期等を指示する企業と、これを受注する企業のとの間にも、「契約によって」そのような関係が形成される。Commonsは、このような関係を集合的取引(transaction)のなかでもmanagerial transactionと呼んで区別している[13]。
いずれにせよ、長期的継続的関係を目的とする戦略的な取引関係の構築には、交渉の段階から、一定の成果が出るまで、時間を要するのが通例である。また、長期的関係にコミットして、関係特殊的な投資を行っていたとすれば、いわゆるホールドアップ問題は生じないとしても[14]、その投資の回収は、長期にわたって継続的に契約関係が存続することが前提となる[15]。この点は、契約関係の解消に関する問題を論ずるときに、考慮されるべきであり、たとえば、解消する場合には「やむを得ない事情」を要件とするとか、事後的な契約交渉の機会を保障するといった、契約規範が必要となる[16]。これに対し、契約の締結に至らない前であっても、契約交渉過程には信義則が適用され、誠実に交渉を行う義務、情報を提供する義務などが課される必要がある[17]。
国際取引に関する契約規範の形成については、国連国際商取引法委員会(以下「UNCITRAL」という)が起草し、1980年に採択された国際物品売買契約に関する条約(以下「CISG」という)及び、1994年に私法統一国際協会(UNIDROIT)が採択した国際商事契約原則(以下「UPICC」という)を考察の対象とする。
CISGは、営業所が異なる国に所在する当事者間の物品売買契約(国際動産売買)に適用される。わが国は、2008年にCISGに加入し、2009年に発効しているが、取引実務の関心はあまり強くないようである。その理由として挙げられているのは、適用範囲が限定的であること、陳腐化した部分に対応しようとしても、多国間条約の形式を採っているため改訂が難しいこと、などである[18]。
これに対し、UPICCは、法的拘束力のないリステイトメントの形式を採用し、その適用範囲を商事契約一般として、CISGが適用除外した消費者売買、製造物責任に関する事項、電子商取引等も含まれるものとした。さらに、契約の不完備性を前提として、契約成立前の誠実交渉義務、事後調整規範の整備、事情変更と再交渉義務に関する規定の設定、長期契約概念の導入といった改訂が行われている。
CISGは、各国の国際契約法を実質的に統一するものであり、2017年2月現在で85カ国が加盟している。イギリスが加入していないことを除けば、国際的な成功を収めているものと評価できよう。わが国は、採択されてから30年近くも経過してから加入したのであるが、その間、国際社会における契約ルールの形成に関する議論には積極的に参加していなかった。他方で、UPICCには、CISGのような法的拘束力はないものの、日本的取引慣行や企業間連携契約において形成されてきた契約規範(長期契約、事後的調整規範等)が埋め込まれている。今後、グローバルなサプライチェーンに関する契約関係を構成する際には、コントラクト・ガバナンスの枠組みにおいて、わが国の商慣習や判例法理もまた、その考慮要素としての地位を占め、さらに他国の研究者・実務家との協働を通じて、より安定的な、国際取引社会の発展に貢献できるように思われる。