宮下 紘【略歴】
宮下 紘/中央大学総合政策学部准教授
専門分野 憲法、比較憲法、情報法
人間は日々データを生み出して生きている。
今日あなたはどれほどのデータを生み出しただろうか。あなたが利用した駅のICカード、電車の中でみたニュース、会社の人とのメールのやり取り、家族へ送信したメッセージ、友人がSNSに投稿した写真への「いいね」、週末に行きたいレストランのウェブサイト、気になる新商品の検索、初めて訪問する場所までの位置情報…。
もはや私たちはデータを生み出すために生きていると言っても過言ではない。日々蓄積されるデータはもしかしたら、私たちの記憶よりも正確に私自身のことを記録しているのかもしれない。ビッグデータの世界では、人間はデータを生み出す商品化された存在である。
しかし、多くの人がそのデータがどこで利用や管理され、誰に共有され、いつまで保存され、そしてどのように分析されているかについて知らない。
私たちのプライバシーは今危機にさらされている。しかし、気味が悪い、といったプライバシーの感情論を振りかざすのではなく、何が守るべきプライバシーであるかを理論的に明らかにすることが重要である。
今日のデータは明日の人間を高確率で予測するところまで来ている。
たとえば、アメリカのスーパーでは、3月にローション、大きめのかばん、サプリメント、ひざ掛けを購入した女性は87%の確率で妊娠していて、8月に出産予定であるというデータ分析を行い、ベビー用品のマーケティングを行っている。実際、データ分析の結果妊娠の確率が高い女子高生のもとにはベビー服のクーポンが送られてきたことで、父親が娘の妊娠に気づかされた例もある。
別の例を挙げれば、シカゴ警察では、誰が街の中で一番殺人をする確率が高く、また誰が一番殺人の被害者になる確率が高いかをデータに基づき明らかにしている。殺人事件が起きる可能性の高い時間帯にその場に行くことが多いとデータが示せば、その人は警告の対象となるであろう。
さらに、データ分析会社は、アメリカの大統領選挙もイギリスのEU離脱の国民投票についても、SNSの「いいね」を分析してきた。データ分析の結果、トランプ氏の当選とイギリスのEU離脱の結果が投票前から予測されていたことが報道されている。
遺伝情報は、人の才能や病気へのリスクなどを予測する手掛かりとなるデータである。自分の手によって変えることのできない遺伝情報が、将来、就職・雇用や医療保険などで用いられれば、人は生まれながらにしてデータによって差別される社会が訪れることにもなりかねない。
データは、私たちのスーパーでの買い物から、公共の安全、さらには民主主義や自分の将来に至るまで人間の行動の隅々まで支配しつつある。
かつてナチスは、パンチカードを用いて、逃げ回るユダヤ人を見つけ出した。死の計算機と呼ばれたパンチカードは、氏名、住所、話す言語のほかに、髪、目、皮膚の色などの個人情報を登録し、ユダヤ人を見つけ出し、大量殺戮の道具となった。
人間の尊厳が傷つけられた苦い歴史を有するヨーロッパでは、プライバシーと個人データの保護をEU基本権憲章で保障する人権の問題として位置付けてきた。2018年5月25日に施行される「EU一般データ保護規則」は、ビッグデータや人工知能の脅威から個人情報を保護するための世界の中で最も厳格な法制度であるとみることができる。
たとえば、データを削除するための忘れられる権利、自らの個人データを企業から持ち運ぶことを認めるデータポータビリティ権、さらにアルゴリズムによる自動決定に異議申立するためのプロファイリングされない権利がみられる。インターネットには明確な国境がないことから、EU市民への商品・サービス提供を行う日本の企業等にも適用されるし、またEUから日本への個人データの移転にも制限規定がある。これら規定の違反した企業等には、最大で年間総売上の4%または2000万ユーロ(約26億円)の制裁金が科される。
このように、ヨーロッパにおいては、「人間の尊厳」という思想に基づき、個人データを保護するための法制度が整備されてきた。
合衆国憲法は、「自由の恵沢」を掲げている。プライバシー権の母国であるアメリカでは、プライバシー権が「個人の自由」の哲学に基づき発展してきた。ルイス・ブランダイスは、ボストンの弁護士として、また合衆国最高裁判事として、プライバシー権を確立させた。捜査機関が令状なしで電話を傍受した事件で、独りにしておいてもらう権利としてプライバシー権を擁護した。プライバシー権は、最も包括的な権利であり、文明化された人類により最も価値あるものとされてきた権利であることをブランダイスは宣言した。
この判決の約10年前ブランダイスは、「巨大さの呪縛」について論じ、巨大企業が市場を歪め、独占がもたらす弊害を指摘した。個人情報を大量に収集・分析する大企業による「呪縛」はまさに個人の自由への脅威になることをブランダイスは悟っていたのかもしれない。
このブランダイスの思想は、現在の連邦取引委員会の姿勢と合致する。アメリカの連邦取引委員会は、これまでも個人情報を不公正あるいは欺瞞的に取り扱ってきた企業に対して制裁金を科してきた。また、近年、大量の個人情報を集積するインターネット大企業が、利用者に対してプライバシーの不利な条件に服従せざるを得ない状況を作り出していることから、個人の自由を奪うものであると考えられるようになった。
かくして、アメリカでは、「個人の自由」という礎によりプライバシー権が発展してきた。
ヨーロッパとアメリカでは、尊厳と自由という異なる思想に基づき、プライバシー権を擁護し、プライバシー保護のための法制度を構築してきた。西欧のプライバシーとひとくくりにはできないほどの違いが今や見ることはできる。
では、日本ではプライバシー権はどのような思想や哲学に従って醸成されてきたのだろうか。
日本におけるプライバシーは、他人の私事には立ち入らないというエチケットの精神に求めることができるのかもしれない。このエチケットの精神から生じる日本なりのプライバシー観はこれまでの政府や企業の個人情報の取扱いへの原点になっていたように思われる。日本の裁判所がプライバシー権という条文がないにもかかわらず、実質的にプライバシー権を保障してきたのは、個人の尊重を掲げる憲法13条の規定を反映していると考えられる。
しかし、日本流のプライバシー権論は再考が求められている。なぜなら、人工知能やロボットにプライバシーのエチケットを遵守せよ、と求めることが困難だからである。日本では、データを駆使した新たな技術を健全に発展させるため、プライバシーのエチケットを超えた、法的権利としてプライバシーを守るための制度が求められている。
データの自動処理のみにより決定されない権利、データの保有期間の制限とデータ削除の権利、データがもたらす差別や偏見からの救済、そして巨大企業によるデータの独占対策としてのデータポータビリティなど欧米の法制度を手掛かりに日本なりのプライバシー法制度を構築していくことが重要である。
ビッグデータの時代のプライバシーの核心は、個人の「尊重」の理念に基づき、データによって勝手に自我像が造られることを防止し、人間自らが自我を造形する権利を手にすることであると考えられる。
人間は主体であって、データはその客体である。この人間とデータとの関係を逆転させ、データから人間の生き方を導き出すような世界は、個人として「尊重」される生き方と矛盾する。
データが私たちの日常を支配しつつある現在のICT社会において、私たちはプライバシーの居場所を再確認する必要がある。その居場所は、ヨーロッパでは人間の「尊厳」に、またアメリカでは個人の「自由」に求めることができた。
データ利活用をより豊かなものにするために、日本ではエチケットの精神を超えて、その防波堤としてプライバシー権の復権が求められている。