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研究一覧

井田 良

井田 良【略歴

重罰化の時代と刑法学の課題

井田 良/中央大学大学院法務研究科教授
専門分野 刑法学

刑法学とはどういう学問か

 刑法とは、犯罪と刑罰に関する法のことをいい、刑罰(の警告と賦課)を手段として将来の犯罪を防止し、社会秩序を維持しようとする。この刑法を研究対象とする刑法学は、ほかにこれだけ魅力のある学問分野はないであろうと思われるほど魅力に富んでいる。それは法律学でありながら、「人」を研究対象とする人文科学や自然科学の諸領域、そして「社会」を研究対象とする隣接の社会科学の諸分野と密接に関わる一種の学際科学である。哲学・倫理学や文学や歴史学、心理学、医学、経済学や社会学等々の学問分野にある程度、深く踏み込んで学ぶことをしなければ、刑法学の様々な問題にアプローチすることはできない。人と社会についての学問的認識と知見は、すべて刑法学にとり重要である。逆に、刑法学を学ぶことにより、そうした認識・知見に触れることができ、また、普通はなかなか見えてこない、人や社会の隠れた側面を見ることもできる。

過去30年間における刑法の変化

 

「社会あるところに法あり」と言われるが、刑法は最も古くからある法である。しかしそれは万古不易でなく、社会と時代環境が変わるにつれて変化する。私が大学教員としての職を得て30年以上になるが、この間にも日本の刑法は様々に変化した。最も大きな変化を一言で要約すれば、市民生活の安全と被害者の保護のため、従来よりも積極的に刑罰を用いようとする傾向が強まったことである。これを「刑罰積極主義」と呼ぶことができる。それにもいくつかの側面があるが、ここで注目したいのは、犯罪に対しより重い刑罰をもって対処しようとする重罰化(ないし厳罰化)の傾向が進行していることである。

 一例のみをあげると、裁判所がその判決の中で有罪と決まった人に対し言い渡す刑は、次第に重くなっている。私が生まれた1956(昭和31)年に、第一審裁判所(地方裁判所)で殺人罪(ただし、未遂を含む)により懲役10年を超える重い刑を言い渡された人は、殺人罪で有罪になった人全体の6パーセント程度であった。それが30年ほど経った1987(昭和62)年になると全体の15パーセントに上がる。さらに30年近く経過した2015(平成27)年になると、35パーセントとなっているのである。しかも、こうした重罰化は、実態としての犯罪の増加や凶悪化を背景にもつことなく、それとは無関係に生じている。

重罰化の社会的背景

 注目に値することは、重罰化の傾向は日本特有のものではなく、諸外国においても同様に見られる国際的な傾向であることである。したがって、その社会的背景を明らかにするためには、世界の先進文明社会に共通する普遍的な側面に関心を向ける必要がある。重要な要因として、国に対する市民生活の安全の保護への要求が著しく高まった、そして、特に国に対する犯罪被害者の権利保護の要求も著しく強まったという事情があることを指摘できるであろう。そのような要求がどこから生じたかといえば、メディアによりますます生々しい形で行われる犯罪報道に接して「不安」に駆られるということが1つ、そして被害者およびその遺族が声を上げるようになりそれに多くの人が共感したということがもう1つであろう。しかも、現代社会においては、一般市民や被害者遺族の要求を国の政策決定や司法の判断に反映させることが可能となるメカニズムが形成されていることが重要である。他方で、まったく異なった事情に注目する人もいる。相対的に平和な時代が続く中で、一般市民の間で「被害への耐性」が弱まったことを重罰化の要因と見るのである。

 こうした重罰化の社会的背景の分析と検討は、もはや法律学のテーマというよりは、社会学や政治学が正面から扱うべき事柄であろう。現代刑法が直面する重罰化の現象は、学際的研究を要する大きな研究課題を提供しているのである。

刑法における非合理主義・反知性主義

 刑法学者としての私にとっての関心事は、重罰化を推し進めている要因の中に憂慮すべきものが含まれており、今後、それを放っておくと、日本の刑法を望ましくない方向に導くおそれがあるということである。「憂慮すべきもの」とは何か。それを言葉にするとすれば、刑法に関する非合理主義・反知性主義の広がりということができるかもしれない。要するに、重罰化の傾向を生み出しているのは、犯罪と刑罰についての合理的なものの考え方を破壊する発想ではないかということなのである。

 戦後社会において、1970年代から80年代までは、犯罪原因論が盛んに論じられた。中でも、犯罪を社会的環境の所産と見る一連の社会学理論が圧倒的に主流であった。個人の行動は社会的諸条件により決定的に制約されており、社会の側の問題性が犯罪現象となって現れているとする思想は、当時の多くの刑法学者により共有されていた。犯罪に対しては社会の側もまた「共同の責任」を負うべきであるとか、刑事責任の追及は「個人に強いスポットライトを当てて周囲の暗闇をさらに拡大する」ものであるという主張は、抗いがたい魅力をもっていた。刑法は、裁く者と裁かれる者との互換性、したがって、置かれた環境により、我々の誰しもが犯罪者と同じ運命をたどる可能性があることを前提とし、犯罪に対し社会的な負の条件が作用した、ちょうどその分だけ、犯罪者を「免責」すべきものと考えられていたのである。

 ところが、今では、犯罪をその社会的条件・要因に関連づけて説明しようとする思想そのものが、説得力を大幅に失っている。犯罪原因論は衰退し、往時の面影さえない。これはゆゆしい事態といわなければならない。人間行動の社会的原因を探るという発想が弱まると、人間行動の原因を究明し、その原因に影響を与えて将来の犯罪を少しでも減少させていきたいという思考もやはり説得力をもたなくなる。そのようなことよりも、とにかく犯罪には少しでも重い反動としての刑罰を加えて被害者やわれわれの処罰感情を解消しようとする発想が支配的となる。

変わるべきものと動かしてはならないもの

 しかしながら、刑罰の効果に関心をもたず、感情にしたがって処罰するというような行き方で本当によいのであろうか。犯罪に対して一定の刑罰を科すことはその場での感情で決められるべき事柄なのであろうか。私は、刑罰を科すという仕事は、たとえば日本銀行の金融政策と基本的には同質的な仕事だと考えている。刑罰を科すかどうか、どの程度の分量の刑罰を科すかの判断は、刑罰(という苦痛の警告と賦課)を手段として人の意思決定と行動をコントロールすることによる将来の犯罪防止を目指して行われるものなのであり、そこでは慎重にメリットとデメリットを比較衡量(すなわち、費用対効果を計算)した上で結論を出していかなければならないはずである。

 刑法が「変革の時代」を迎えているといわれるようになって久しい。刑法もまた社会と時代環境の変化に対応して変わらねばならないのはその通りである。しかし、たとえ社会と時代環境が変わろうとも動かしてはならないものもまた存在する。今ほど、刑法における「変わるべきものと動かしてはならないもの」の見極めが求められている時代はない。

 
井田 良(いだ・まこと)/中央大学大学院法務研究科教授
専門分野 刑法学
東京都出身。1956年生まれ。1978年慶應義塾大学法学部卒業。1989年法学博士(ケルン大学)。2016年より現職。研究テーマは、理論刑法学の諸問題。学外の役職としては、日本刑法学会常務理事、法務省法制審議会委員、司法研修所参与等がある。過去には、文化庁宗教法人審議会会長や日本学術会議会員等も務めた。2006年にシーボルト賞(ドイツ・フンボルト財団)、2009年に名誉法学博士号(ザールラント大学)、ザイボルト賞(ドイツ研究振興財団)、2012年に名誉法学博士号(エアランゲン大学)、2015年にドイツ連邦共和国功労勲章を授与された。主要著書に、『講義刑法学・総論』(有斐閣、2008年)、『講義刑法学・各論』(有斐閣、2016年)など。