コンプライアンス(法令遵守)が叫ばれて久しいが、多くの日本企業はこれに食傷気味だという。面倒が増えて本来業務が委縮する、と感じるらしい。「そんなこと気にせず利益拡大に専心したい」、これが本音かもしれない。だが、ここには誤解がある。
コンプライアンスと近代法の理念
コンプライアンスは20世紀後半の米国で喧伝され始めたキャッチフレーズ。英語のcomplianceは広い文脈で「従うこと」を意味する。企業の法令遵守のみならず、患者が医師の投薬法に従うこと、外力を受けた物体が弾性を示すこともcompliance。語源はラテン語の動詞complere(空所を満たして一杯にする)。これは英語のcomplete(完成させる、完成された)の祖語でもある。我を張らず従順に相手に合わせ、その求めを十分に満たす。法的文脈であれば、法令の命ずる所に従い、法の支配を完全に実現する。コンプライアンスとは「法の支配」という国家の統治原則を企業統治にも適用し、業務効率のアップやリスク軽減、市場からの信認拡大を目指すもの。その背後には法に対する強い信頼がある。
現代社会の法は近代欧州が掲げた理念的人間像、すなわち他者から独立した自由で平等な個人を基軸とする。具体的な法制度は、ロックの流れを汲む米国のように自由に重きを置くか、ルソーの系譜にあるフランスやドイツのように平等にも同等の重みを置くかで、中身が違ってくる。だが、法の支配により個人の尊厳を守ろうとする点は欧米各国に共通する。同様に、企業が遵守すべき法令は国や時代で異なるが、法令遵守の姿勢や個人の尊厳を守るという価値観は現代欧米の企業に概して共有されている。廃棄物を適正に処理しない企業や消費者を欺く企業、労働法を無視する企業は市場から報復を受ける。法令遵守なしに企業は市場から信認を得られない。つまり、企業には法令遵守のインセンティヴが本来的に働く。だが、実際には様々な原因で企業の法令違反はどこの国でも発生する。それゆえ、殊更にコンプライアンスを唱えて原因除去に努める必要も生じてくる。
事態は日本企業にとっても概して同じ。では、なぜ多くの日本企業はコンプライアンスを厭わしく感じてしまうのか。
そもそも会社制度とは
会社制度は近代欧州で生まれた。ローマ法の時代には組合はあったが会社はなかった。社会に有益な財やサービスは、提供者である自然人の死後も継続的に提供されるのが望ましい。そのため、原資を広く社会から募って事業を実施する主体を会社法人(中世教会法が生んだ法人概念を転用)として観念する法的慣行ができた。英蘭の東インド会社など初期の会社は国家権力の特許で設立され、国益に資することが期待された。しかし、それでは受益者が一部の金持ちに限られる。平等思想を掲げたフランス革命を経て、欧米における会社制度はその後、社会全般の厚生増進に有効な法的メカニズムへと脱皮した。すなわち、市民の自由な起業精神を活用して財・サービスを市場に効率よく提供し、あらゆる市民の生活を豊かにするための制度である。これを主導したのは個人を重視する上述の近代欧州の理念。こうした目線で見ると会社は株主や経営者、従業員のものであるだけでなく、市場に参加する全市民のためのもの。現代の市場は自ら主権者として立法し、自ら法を遵守して行動する個人の自律に支えられており、企業が従うべき法律もこの中で作られる。企業活動を規制する法律もあるが、それは企業活動を不当に縛るものではなく、個人の尊厳を守るために社会が要請する必要最低限である。経営者も従業員も企業人である以前に一人の尊厳ある個人。企業が法に従わないという選択肢は本来、あり得ない。
もちろん、これは理想論である。実際には、企業が規制法を喜ばしい義務と見なすには困難が伴う。それでも、百年単位で見ると、企業のあり方はこの理想論にゆっくりと近づきつつある。かつては人を人と見なさない企業活動も横行した(18世紀の奴隷売買企業、19世紀の労働者搾取企業、20世紀の公害企業など)。これを規制する立法の過程で企業と市民が対立、立法内容の歪曲や法令遵守の遅滞が起こることもしばしばだった。こうした弁証法的なイタチごっこが二百年も続いて、法令は改善され、悪質な企業は淘汰され、個人の尊厳重視や遵法意識・体制が企業に概して定着するに至った。
日本特有の共同体思考
日本の企業も似たような過去を持つ。だが、尊厳重視や遵法意識・体制という点で欧米と比べて周回遅れに見える。その一因は日本の文化にある。日本には共同体を個人に優先させる価値観が根を張る。共同体は家族、友人、学校、会社などあちこちに存立し、それぞれが外部から閉ざされた空間となっている。会社内でも各部署(取締役会から末端の実働部隊まで様々)がそれぞれ一つのサブ共同体として閉鎖的になりがち。各共同体内部には同調圧力に象徴される倫理規範が根を下ろす。この規範はチームワークや和の精神など日本的美徳の源泉だが、個を殺す滅私奉公的発想(サービス残業など)、事を荒立てるのを避ける隠蔽体質(三菱の燃費偽装など典型)など否定的側面の源泉でもある。
共同体優先の思想は欧米にもアリストテレス以来、現代のサンデルらに至るまで存在はするが、概して個の尊厳と親和性が高い。アリストテレスは古代ギリシアの都市国家を共同体の典型と捉え、共同体で各自が果たすべき役割(自由人としての、奴隷としての、等々)を果たすことでその繁栄永続に寄与すべし、と考えた。他方、彼が生きたアテナイ(今日のアテネ)では自由民が一定程度、主体性ある個としてふるまう規範が根づいていた。サンデルはこのアリストテレス的な枠組みを現代米国(多様な共同体が複層的にひしめく多民族社会)に再生させた人で、諸共同体間の対話を重視はするが、個を否定するわけではない。これに対して日本では個の成立そのものがくじかれる傾向にある。行き場を失った個はいきおい禅に代表される無の思想など(あるいは飲み屋での愚痴話やオタクの世界など)へと逃げ込むことになる。
こうした日本の文化伝統にどっぷり浸かると、自らが共同体の一員である以前にまず尊厳ある個人である、という意識は涵養されにくい。むしろ共同体への帰属が自らのアイデンティティの拠り所となり(一昔前の「会社人間」が典型)、全体の方向性に抗わず己を無にして身を委ねることが人の生きる道と諦念されることになる。東芝で粉飾の下働きをした人々もこうした諦念を抱いたに違いない。ここには上述した近代欧州の理念とは真逆の「法人が主、自然人は従」という規範が定立されがちとなる。
喜ばしきコンプライアンスへ向けて
加えて、日本では明治以降、富国強兵、戦後復興、高度成長など様々な理由で企業(の利益拡大)が個人より重視されがちだった。個人の尊厳は大事だが、まず企業が儲けないと話が始まらない。アベノミクスもこの発想。更に1980年代以降は英米主導の短期利益至上主義が席巻し、目先の利益につながらないことをすべて切り捨てる価値観が浸透した。だが、短期利益至上主義は富の公正な配分に失敗し、今や世界的に修正が求められている(米のトランプ・サンダース現象、英のEUを巡る国民投票結果を見よ)。市場ではCSRやESG投資など自律的修正が既に始まっている。市場には自由な利益最大化という功利主義的ベクトルと尊厳の保護という平等主義的ベクトルが共存しており平衡点を絶えず模索している。レーガン・サッチャー以降、前者に偏った振り子が今、次第に後者へとより戻しをかけつつある。環境問題や労働者保護、法令遵守は会社の本来業務と無関係に映るかもしれないが、関係すると認識を改めた方がいい。
どうすればコンプライアンスが喜ばしきものとなるか。それには株主、経営者、従業員、それぞれが責任ある一市民としての強い自覚を持つことが必要だろう。そうすれば、目先の手間を増やすルールが課されても、それが市民目線で必要ならば、長い目で企業活動にプラスだと理解できるはず。法令遵守を低コストで進める術も身についていくはず。
- 古田 裕清(ふるた・ひろきよ)/中央大学法学部教授
専門分野 哲学・倫理学
- 1963年生まれ、1986年京都大学文学部卒業、
1993年ミュンヘン大学(ドイツ)哲学部博士課程修了、ミュンヘン大学哲学博士(Dr.phil.)。
中央大学法学部専任講師、助教授を経て2004年より現職。
哲学・倫理学の分野で著作多数。レクシスネクシス社刊の雑誌『ビジネスロージャーナル』にシリーズ「源流からたどる翻訳法令用語の来歴」を連載中、その第1回から第30回までは『源流からたどる翻訳法令用語の来歴』(中央大学出版部、2015年)にまとめられている。