山本 秀男【略歴】
山本 秀男/中央大学大学院戦略経営研究科(ビジネススクール)教授
専門分野 プログラムマネジメント、ICTシステム投資評価
本稿は、JSPS科研費15K03220の助成を受けたものです。(広報室)
2002年6月、私は、ある中央省庁の文書管理システム構築に応募する準備を進めていた。e-Japan構想が固まり、官公庁の情報システム構築業者は公募によって選定されていた。しかし「東京都の文書総合管理システムの落札価格が750円」という新聞記事[1]も出て、超安値入札が社会問題となっていた。そのため、入札は「技術点+価格点+α」という総合評価方式で実施することになった。私のグループは、当該省庁への導入実績はなかったが、総合評価方式であれば、技術力で勝負できると考えていた。
上記のシステム構築費用を人件費と物品価格から算出すると、想定される落札価格の1.5倍近い費用になることがわかった。そこで、関連子会社にほとんど利益が出ない費用で下請けてもらう交渉を行い、想定落札価格ギリギリで入札した。技術力には自信があったので、受注できると思っていた。しかし、結果は失注。落札した企業の提案価格は、我々の入札価格の3分の1であった。
低価格で落札された案件は、後日その内訳が公表される。内訳の中に「出精値引」という言葉があった。この出精値引によって低価格の提案ができたのだ。しかし、どのようにしてこの費用を回収するのだろうか?
失注のため、本件の情報収集と資料作成に要した約1ヶ月の人件費が、全て無駄になってしまった。私は、赤字プロジェクトのリーダーになることは無く、子会社に辛い思いをさせることはなかった。しかし、その後も、コストを積み上げた価格で入札すると失注が続いた。
価格競争になると、人件費の削減と利益の圧縮が不可欠になる。下請け企業や部品を供給する企業は、特別な能力や特徴を持たないと、コスト削減圧力が強まり、厳しい労働環境におかれる。談合は悪である。しかし、規制の強化やモラル教育だけでは、下請け企業のしわ寄せに起因する問題は解決されない。価格競争が行き過ぎると品質確保が難しくなることを実感しながら、受注の取れないマネジャーとして、何とも割り切れない感覚が続いた。
(野中・遠山・平田, 2010)は、2004年11月に発覚した三井物産DPF事件[2]の後の槍田松瑩社長の行動を引用し、組織改革を行うときにリーダーの取るべき姿を論じている。槍田社長は、2002年に発覚した国後事件[3]の引責で辞任した清水慎次郎社長の後任である。就任直後「三井物産の志すもの」というメッセージを発し、2003年4月には「業務改革ビジョン」を全社員に向けて発信した。ところが2004年11月にDPF事件が発覚する。事件発覚後に設置された、社外委員からなる「DPF問題委員会」の答申によると、「国後事件以降、社員のコンプライアンス意識の向上に取り組んできたが、現場の隅々まで浸透していなかった」「仕事の現場が『役職員行動規範』と必ずしも一致していなかった」「匿名の内部通報制度の存在が周知徹底していなかった」などが指摘された(野中・遠山・平田, 2010, p.338から引用抜粋)。槍田は、三井物産の創業者益田孝の残した経営理念に立ち戻り、「良い仕事」とは何かを地道に説き続け、社員に自らの仕事の価値を自覚させ、組織の改革を継続した。
三井物産の槍田の事例は、企業のトップは、社会的存在意義のあるビジョンを掲げ、そのビジョンを実現するために、粘り強く行動することが必要であることを示唆している。
価格競争に陥らないためには、顧客に受け入れられる新しい製品や新たなサービスの開拓が必要である。新しい研究やビジネスを創出するためには、トップによる組織構成員への動機付けと同時に、担当者の自由度を認めることも忘れてはならない。
キユーピー株式会社は、価格競争に巻き込まれない製品の開発を行うため、事業ラインとは一線を画したコーポレート研究開発を立ち上げた。発足当初、研究・開発・商品化の各節目(ステージ)において、その段階までの成果物の採用/不採用を判断するステージゲート法[4]を用いていた。しかし、管理を強化すると研究員の士気が低下し、研究開発のスピードが落ちた。そこで、2009年に、研究者の士気を高める管理手法を取り入れた。各節目で不採用になっていた成果物に対して、どのように改良すれば良いかの助言を与え、プロジェクトを継続させる方式、ブーストゲート法を導入した。各節目には経営者が参加し、企業のミッションを社員と共有する具体的な「場」を提供したのである(和田・亀山, 2013)。その結果、社員の士気が上がり業績も向上した(Wada, Y., et al 2015)。
2010年、米国で起こったトヨタのリコール問題で、トヨタの豊田章男社長が米国下院議会の監督・政府改革委員会の公聴会で証言[5]した。証言の中に次のような言葉がある(山本が日本語訳)。
(前半省略)トヨタはこの数年間、急速にビジネスを拡大させてきました。率直に申し上げると、成長のペースが速すぎたのではないかと感じています。トヨタは、一に安全、二に品質、三に量産、の優先順位を伝統的に守ってきました。ところが、あまりにも急速に成長したため、その優先順位が混乱してしまいました。「お客様の声を聴き、良い製品をつくるために、立ち止まって考え、改善する」という基本精神が薄れてしまったのです。・・・(後半省略)
豊田社長の証言からは、企業に文化を定着させ、企業価値の向上に結びつけるためには、トップと現場の十分な対話の時間が必要だという示唆が得られる。
企業のマネジメントには、様々なジレンマ[6]が存在する(ミンツバーグ, 2011)。多様な価値観を持つ人材が集まる大きな組織では、トップの意向を受けたミドルマネジャーの役割が重要になる。ミドルマネジャーが、現場の社員の要求や苦悩を理解し、新しいアイディアが出やすい環境を創るのである。それには、二項対立の判断ではなく、八百万の神を認めるような多様性を許容する創造的思考法が必要ではないだろうか。
本ビジネススクールにおいて、組織のビジョンを現場の社員と共有し、正しい方向に牽引できる人財育成の研究・教育に努力していきたい。