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トップ>研究>企業価値と人権をめぐる覚書-憲法からの問題提起-

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橋本 基弘

橋本 基弘【略歴

企業価値と人権をめぐる覚書-憲法からの問題提起-

橋本 基弘/中央大学法学部教授
専門分野/公法学

本稿は、JSPS科研費15K03220の助成を受けたものです。(広報室)

1.八幡製鉄政治献金事件最高裁大法廷判決と企業の人権

 ブラック企業という呼び方が普及して、企業が法令を遵守しない場合や企業倫理に著しく反する行為を行っている場合、あるいは企業利益優先としかとれないような活動を続けている場合には、一般社会から非難が浴びせかけられるようになった。企業が人権(ここでいう人権とは、日本国憲法が保障する基本的人権にとどまらず、個々人の尊厳を守るために必要な権利一般を指す)を軽んじる場合には、企業価値だけでなく、企業の社会的存在そのものに否定的な評価が与えられることになる。

 かつて八幡製鉄政治献金事件で最高裁大法廷は(最大判昭和45年6月24日民集24巻6号625頁)、会社にも人権が保障されることを認めた。その理由は、会社も自然人と同様な社会的実在であることに求められた。同時期、企業が雇い入れの自由を有するかどうかが争われた三菱樹脂事件最高裁大法廷判決(最大判昭和48年12月12日民集27巻11号1536頁)では、この自由を認め、企業と私人との間で生じる人権問題には憲法の人権規定の直接の適用はないと断言した。要するに、会社にも憲法上の人権が保障されるが、会社による人権侵害には憲法の適用はないとしたわけである。私人には憲法を擁護する義務は課されないので、よほどのことがない限り、会社と個人の間で生じる「人権問題」には国家が口出しをしないとう論理がここから生まれている。

 とはいうものの、法律には、会社に対して「人権」を擁護せよと義務づけるものも少なくない。男女雇用機会均等法は言うに及ばず、個人情報保護法や障害者差別解消法も事業者たる会社に「人権」を守ることを要求している。憲法が適用されない領域を法律によって埋め合わせるという戦略なのだろうか。今思うと、最高裁が「人造物である会社は、自然人と同じではないし、ましてや自然人以上に強大な力を持つ会社は、むしろ国家と同等に人権の抑圧主体となり得る」と言ってくれれば事は簡単だったのかもしれない。上記最高裁判決とこれら法律の関係をどのように説明するのかは、いまだによく分からない。自然人に課すことができない義務を会社に課すことができるという論理は、最高裁判決からは導けないようにも思う。

 一方、八幡製鉄事件最高裁大法廷判決には、次のような説示がある。

「会社にとつても、一般に、かかる社会的作用に属する活動をすることは、無益無用のことではなく、企業体としての円滑な発展を図るうえに相当の価値と効果を認めることもできるのであるから、その意味において、これらの行為もまた、間接ではあつても、目的遂行のうえに必要なものであるとするを妨げない。災害救援資金の寄附、地域社会への財産上の奉仕、各種福祉事業への資金面での協力などはまさにその適例であろう。」

 人権を守らないと、会社に対するマイナスのイメージが生じる。会社に対するネガティブな社会的評価は企業価値を低下させる。会社は人権の享有主体であるが、人権を守る立場にはないという判決の前提を踏まえると、会社が上記の法律を遵守する理由は、おそらくこの点にあるといえよう。企業の社会的責任論が空疎に見える理由は、このような判例の立場に理由があるのかもしれない。

2.Nike vs Kaskey,539 US 654 (2003)

 もちろん、企業活動を円滑に行うためであれ、企業活動を阻害する要因を除去するためであれ、人権という価値を重んじているという会社の姿勢は、従業員を初めとするステークホルダーにとって重要である。逆に、人権を抑圧しているというイメージは、冒頭で述べた「ブラック」とのレッテルを貼られることに直結する。

 一つ例を挙げよう。ある有名なスポーツメーカーが海外拠点において現地の労働者を虐待したり、最低賃金を下回る条件で雇っていたことが報じられた。この報道に反論するため、この会社はプレスを通じて自社の立場を説明したり、大口取引先への説明を行った。これに対して、カリフォルニア州の住民が、同社の広報活動には虚偽が含まれているとして、同州にある企業倫理法(Business and Professions Code)に基づき差し止めなどを求めた事例がある(Nike vs Kaskey,539 US 654 (2003))。

 合衆国最高裁判所は、この訴えを当事者適格を欠いているという理由で却下した。その限りで同社は裁判には勝つことができたものの、企業イメージの修正改善に多くのコストを費やさざるを得なくなった。原告からすると、裁判に負けて勝負に勝った事例であると言えようか(以上、詳細については、拙稿『表現の自由 理論と解釈』(中央大学出版部)125頁を参照願いたい)。わが国においても、消費者団体訴訟が制度化された今日、この種の訴訟が提起されないとは断言できない。企業の広告活動が企業の反人権的活動を理由する差し止め請求の対象となる可能性も生じてこよう。

 一方、この手の訴えを封じ込めるために、会社が多額の損害賠償請求を行うSLAPP(Strategic Lawsuits Against Public Participation)訴訟も問題となる(SLAPP訴訟に関する綿密な論考として、吉野夏巳「反SLAPP法と表現の自由」岡山大学法学会雑誌65巻3.4号709頁参照)。会社を批判する言論を封じ込めるための損害賠償請求は、企業の財産権を守ることになるし、ひいては株主の利益にも奉仕することになるであろう。ただ、この手の訴訟を行うとなると、言論封殺という悪いイメージや高圧的な姿勢が知れ渡ってしまう。それが回り回って「企業体としての円滑な発展を図るうえに相当の(マイナスの)価値と効果」を持つ危険性も考慮しておく必要がある。

 要は、会社が人権を守る理由は、それが企業利益につながるからであり、そのことを過小評価すべきではない。もともと内心の自由のない会社に人権の価値を共有せよというのもどだいおかしな話であって、むしろ端的に、人権を擁護しない会社は、市民社会からも放逐されるという状況を作り出すことが重要なのだと思う。企業倫理とは、われわれ生身の人間における倫理とは異なり、内心の問題として構成することはできない。

 この点は、合衆国最高裁判所においても同様な意見があることに注目したい。政治献金規制の合憲性が問題となったCitizens United 判決(Citizens United vs FEC,558 US 310 (2010))では、株式会社の有限責任が社会的無責任につながるとの強力な意見が展開された(このような見方を明確に述べたものとして、奥村宏『株式会社に社会的責任はあるか』(2006年岩波書店)47頁以下参照)。ステーヴンス裁判官は、会社が「自然人とは異なり、所有者や経営者に有限責任を負わせるのみであり、『永続的生命』を持ち、所有と支配が区別され、財産の蓄積と分配について優遇措置を受け、それにより資本を集め、株主の投資に対して配当を最大化するやり方で資源を開発する能力が強化され・・・良心がなく、信念も感情も思想も欲望も持たない」(558 US 466)と言い切ったのである(これらの点について、拙稿「政治献金規制と司法審査の役割-McCutheon判決を読む-」比較法雑誌49巻1号1頁)。

3.おわりに

 会社と人権をめぐる問題を考える際、私たちは、自然人と同様な意味で人格や責任をとらえることは適切ではない。なるほど、法がそこに一定の資格を付与したのだという意味では、法人も自然人も同じ人格なのかもしれないが、自然人を人格と呼ぶ場合には、もっと他の意味合いが付け加えられているように思う。それは、カントが言うような、定言命法に従うような生き物であって、完全責任を前提としている。それゆえに、企業価値と人権を結びつけるとき、企業が人権を意識できる主体であるとか、責任を果たす主体であるという幻想は捨てなければならない。企業の社会的責任論と同じく、「企業の人権」あるいは「企業と人権」という問題は、純粋に経済活動における損得の問題として構成しなければならないのでなかろうか。

橋本 基弘(はしもと・もとひろ)/中央大学法学部教授
専門分野/公法学
徳島県出身。1959年生まれ。1982年中央大学法学部法律学科卒業。
1989年同大学院法学研究科公法専攻博士後期課程単位取得。博士(法学)。
高知県立高知女子大学(現高知県立大学)助教授・教授を経て2004年4月より中央大学法学部教授。
2009年11月 中央大学法学部長に就任(2013年10月まで)
2009年11月 学校法人中央大学理事に就任(2013年10月まで)
2014年11月 中央大学副学長に就任(現在に至る)
現在の研究・活動分野は、憲法における個人と団体の位置付け、現代社会と情報の自由、条例制定権をめぐる諸問題など。 主な著作に、『近代憲法における団体と個人』(不磨書房・信山社)、『プチゼミ憲法1(人権)』(法学書院)、『よくわかる地方自治法』(共著、ミネルヴァ書房)、『憲法の基礎』(北樹出版)、『国家公務員法の解説』(共著、一橋出版)、『表現の自由 理論と解釈』(中央大学出版部)、『日本国憲法を学ぶ』(中央経済社)などがある。