私は、中央大学法科大学院教授の遠山信一郎教授を中心とする「企業価値向上型コンプライアンス研究会」に参加させていただいている。コンプライアンスに「企業価値向上型」という限定がつくと、これはたいへんに難しい問題となる。「企業価値向上」を、企業価値の毀損を防ぐというマイナスを減らすことも含むなら、コンプライアンスは当然に企業価値の毀損を予防するからわざわざ「企業価値向上型」と言うには及ばない。遠山信一郎教授も、「企業価値向上型」という言葉から、プラスの企業価値を積極的に増大させるという意味で理解しているようである。そうなると、私には「企業価値向上型コンプライアンス」がいかなるものか、いまだに回答が見つからず、頭を抱えたままである。
とりあえず「企業価値向上型」を外して日本企業のコンプライアンスを考えてみると、昔に比べて現在の日本企業のコンプライアンス意識はどんどん高まっていることが明らかである。私のような年寄りは、昔のことをよく知っているという特徴がある。私の子供時代は、日本の社会はコンプライアンスの面ではたいへんにいい加減であった。交通規則違反を起こすと免許証は一時警察が預かるシステムであったが、多くの人は、国会議員や市会議員などの有力者に頼んで、免許証を警察から返してもらっていた。その場合は当然に交通規則違反処分もなくなることになっていた。賭け麻雀も盛んで、おそらく、警察でも賭け麻雀が行われていたはずである。賄賂も横行し、昭和電工事件や造船疑獄事件などの大型贈賄事件が起こった。大型の贈収賄事件は、ロッキード事件を境として減少してきたように思われる。もちろん、皆無となったわけではなく、1988年のリクルート事件、1993年のゼネコン汚職事件や2008年の西松建設事件などが発生しているし、小型の贈賄事件も時々報道されている。しかし、傾向としては、大型の贈賄事件はどんどん少なくなっている印象である。
世界の贈収賄による汚染度を調査しているNPOのトランスペアレンシー・インターナショナルの2015年腐敗度番付では、日本は世界168カ国中、香港、アイルランドと同順位の18位である。香港は徐々に順位を落としている。ちなみにアジアでは、シンガポールがダントツでクリーンであり、順位は8位である。贈収賄に関して最も清潔な国はデンマークであり、2位がフィンランドである。ドイツ10位、アメリカは16位、フランスが23位である。南米は一般的に贈賄が横行しているように思われているが、ウルグアイは日本の次ぎの21位(18位が3ヵ国ある結果)であり、チリはフランスと同順位の23位である。最悪の168位はソマリアで、その一つ上が北朝鮮である。
食品の産地や賞味期限の偽装などは、私の子供のころは日常茶飯事であった。灘の日本酒の酒造に福島から日本酒を卸していたとか、小田原のかまぼこ屋さんに、福島のいわきからかまぼこを供給していたというような噂を聞いてもだれも驚かなかった。いまでは、産地偽装や賞味期限の偽装は、消費者から厳しく糾弾されている。
総会屋を使って株主総会を短時間の内に終わらせる慣習も株主に対する利益供与罪が制定され、勇気のある企業と総会屋の壮絶な闘いを経ていまや総会屋は絶滅したように思われる。
談合についても、リーニエンシー制度が出来てから企業が疑心暗鬼になってきたことが功を奏して減少しているように思われる。アメリカの独禁法が活発に域外に適用され、日本の企業が多額の罰金をアメリカ司法省に払い、その結果、日本で取締役の責任を追及する株主代表訴訟が起こされる、と言う状況も、国際的に活動する日本企業の談合を少なくしている。明らかに、株主代表訴訟は、企業経営者をしてコンプライアンス強化に向かわせた。
インサイダー取引についても、昔は大手法律事務所のトップパートナー弁護士がインサイダー取引を行うというようなことすらあったが、現在ではかなり少なくなってきているように思われる。
このように、敗戦後から現在まで、日本では大企業から始まり着実に企業不祥事が減っており、逆にコンプライアンス意識が少しずつ中小企業に到るまで進展してきていることが分かる。昔、商社に就職したころ、営業部の人に「これは違法ですから契約書に書けません」と言うと、「では、裏契約として別途覚書を作っておきましょう」と言われて、びっくりしたことが何度かあった。このような裏契約にすればオーケーという考えもその後消えた。まちがいなく、日本の企業はクリーンになってきている。もちろん石川五右衛門ではないが、「浜の真砂は 尽くるとも 世に不祥事の種は尽くまじ」であり、あの東芝が不正経理事件を起こしたことに驚いているうちに、今度はあのフォルクスワーゲンがディーゼルエンジンのデータ改ざん事件を起こした。企業不祥事を起こしているのは日本企業ばかりではなく、アメリカや欧州の企業も同様である。アメリカや欧州でどのような不祥事対策が取られているか、参考書は多少買ったが、研究はこれからである。
冒頭に述べたように、遠山信一郎教授から出された問題が「企業価値向上型コンプライアンス」である。単に企業の身の回りをクリーンにし、企業価値毀損の機会を少なくするだけではなく、コンプライアンスによってプラスの企業価値を向上させなければならない。これはコンプライアンス概念のコペルニクス的発展である。コンプライアンスを「法令遵守」と理解すると、解はない。コンプライアンスを法令のようなハードローのほかに慣習や社会規範や倫理などのソフトローをもちこむとなんとか答えがでるのではないか、と考えている。幸い、日本では、このようなソフトローをコンプライアンスに含む考え方が強くなってきたようである。(藤井孝司、「コンプライアンスは風に乗って」NBL 1071号(2016年)1頁)それでも、コンプライアンスの対象に合理的限定を付けないと、どんどん内容が希薄化しそうである。
比較法的に、アメリカやヨーロッパの不祥事対策研究を調べてみたいが、いままで読んだ文献では「トップの意識改革が大切である」的な議論が多く、なかなか学問的かつ実証的な議論に遭遇しないことが悩みである。