小野 有人【略歴】
小野 有人/中央大学商学部教授
専門分野 銀行論、企業金融
望ましい経済政策を考えるうえで、ある経済事象が供給要因と需要要因のどちらによって生じたのかを明らかにすることはとても大切です。たとえば、筆者の専門とする銀行についてみると、日本の銀行貸出(国内銀行ベース)は、1990年代後半から2000年代前半にかけて大きく減少しました(図)。こうした銀行貸出の減少が、当時多額の不良債権を抱えていた銀行が貸出供給を抑制したことによって生じたのであれば(供給要因)、望ましい政策対応は、銀行の不良債権問題の解決に求められます。一方、銀行貸出の減少が、景気の低迷やデフレによって企業や家計の資金需要が減退したため生じたのであれば(需要要因)、経済の総需要を喚起するような政策が必要とされます。
しかし、需要要因と供給要因の識別(需給の識別)には、通常少なからぬ困難を伴います。なぜならば、需要側の要因と供給側の要因とが互いに関連しあうことが多いからです。先の銀行貸出の例に即していえば、日本の不良債権問題の主因の一つは、1980年代後半に生じた資産価格(地価・株価)バブルの崩壊でした。そして、資産価格の下落は、不良債権の増大により資金供給主体である金融機関のバランスシートを毀損すると同時に、資金需要者である企業や家計の保有する資産価値の低下を通じて、資金需要の減退にもつながったと考えられます。日本の銀行貸出の減少をめぐっては、銀行側の要因と借手側の要因のどちらが主因なのかについて、政策当局者も含めて活発に議論されましたが、多くの人が同意するコンセンサスは現在に至るまで得られていないと思われます。その理由の一つは、こうした需給の識別の困難にあります。
しかし、近年、世界的な金融危機に対する関心の高まりを背景に、地理的な情報や詳細なミクロ経済データを利用して需給を識別しようとする新たな手法が提案されています。以下では、こうした新たな手法のいくつかをご紹介したいと思います。
需給の識別はなぜ困難なのでしょうか? その理由の一つは、銀行貸出の背後にある需要要因、供給要因のすべてを私たちが観察することはできないことにあります。
たとえば、銀行の不良債権が銀行貸出に及ぼす影響(供給要因)を調べるために、銀行貸出額と銀行の不良債権比率(不良債権額/貸出額全体)のデータを用いて、以下のような関数を推計するとします。
銀行貸出額の変化率=a+b×銀行の不良債権比率+誤差 (1)
aとbはデータの平均的な傾向から求められるパラメータであり、不良債権比率が高い銀行ほど貸出供給を減らすのであれば、bは負(マイナス)の値をとると予想されます。
実際にデータを当てはめて(1)式を推計し、bの符号が予想通りマイナスだったとしましょう。では、銀行貸出は不良債権の増大という供給要因によって減少したと結論づけられるでしょうか? 残念ながら、答は「そうとは断言できない」です。それは、(1)式では需要側の要因が考慮されていないからです。需要側の要因を考慮した場合、(1)式は以下のように書けます。
銀行貸出額の変化率=a’+b’×銀行の不良債権比率+借入需要要因+誤差 (2)
(2)式が正しい場合、(1)式で推定されたbの値には、不良債権という供給側の要因だけではなく、需要側の要因も含まれることになります。たとえば、バブル崩壊後の資産価格の下落によって借入需要が大きく減退した顧客を多く抱えていた銀行ほど不良債権比率が高い場合、銀行の不良債権比率は借入需要と正の相関(関係性)を持つため、(1)式で推定されたbの値は供給要因を過大に評価していることになります(b>b’)。
こうした問題に対処するため、多くの先行研究では、借入需要要因も取り込んだ(2)式を推定しています。しかし、研究者が実際にデータとして観察でき、(2)式のような形で考慮できる変数の数には限界があります。もし研究者には観察不能な借入需要要因が残されているならば(その可能性は高そうですが)、貸出供給要因を正確に抽出したとはいえないことになります。
こうした需給の識別問題に対する一つの解決策は、貸出供給ショックによって借入需要が影響されそうにない主体を分析対象とすることです。先に、日本の資産価格バブルの崩壊は、銀行の不良債権を増大させただけでなく、企業、家計の借入需要にも影響を及ぼしたため、需給の識別が困難だと指摘しました。しかし、日本のバブル崩壊は、海外の企業や家計の借入需要には影響をほとんど及ぼさないだろうと考えられます。そうであれば、不良債権の増大した日本の銀行と取引していた海外の借手への貸出額をみることで、供給ショックの影響を検証することができます。
こうした研究例として、バブル崩壊後の日本の株価の下落や不良債権比率の上昇が、日本の銀行の米国向け貸出や、ひいては米国での実体経済活動にマイナスの影響を及ぼしたことを指摘した実証研究があります[i]。また、金融危機ではありませんが、筆者は、細野薫氏(学習院大学)、宮川大介氏(一橋大学)、内野泰助氏(大東文化大学)、間真実氏(一橋大学大学院)、内田浩史氏(神戸大学)、植杉威一郎氏(一橋大学)との共同研究にて、阪神・淡路大震災による銀行へのダメージが、その取引先企業の設備投資に及ぼす影響について検証しました[ii]。震災は被災した銀行と企業の両方に影響を及ぼすと考えられますが、被災地「外」に所在していた企業であれば震災による直接的な影響はないと考えられます。そこで同研究では、被災した銀行と取引していた被災地外企業の設備投資を、被災しなかった銀行と取引していた被災地外企業の設備投資と比較して、震災による貸出供給ショックを抽出しています。
上記の研究は、供給ショックを識別するうえでは有用ですが、欠点もあります。それは、金融危機や震災というショックの「震源地」(日本や被災地)での貸出に関する示唆を得られないということです。
そこで、最近の研究では、同じ借手に対して貸出をしている複数の銀行の貸出額データを利用することで、需給の識別問題の解決を試みているものもあります。その基本的なアイデアは以下のようなものです。
いま、日本に所在する企業iと取引している2つの銀行(銀行1と銀行2と呼びます)があり、それぞれの企業iに対する貸出額が分かっているとすると、先の(2)式は以下のように書き直せます。
(銀行1による企業i向け貸出額変化率)=a’+b’×銀行1の不良債権比率
+企業iの借入需要要因+誤差(i,1)
(銀行2による企業i向け貸出額変化率)=a’+b’×銀行2の不良債権比率
+企業iの借入需要要因+誤差(i,2)
両式の差をとると、
(銀行1による企業i向け貸出額変化率)-(銀行2による企業i向け貸出額変化率)
=b’×(銀行1の不良債権比率-銀行2の不良債権比率)+{誤差(i,1)-誤差(i,2)}(3)
となり、企業の借入需要要因が消えてしまいます。これは、一つの企業に対して複数の銀行が貸出を行っている場合、当該企業の資金需要は共通した要因なので、銀行1、銀行2の企業iに対する貸出額の差は、貸出供給側の要因に帰着するからです。(3)式を推定することで、銀行の不良債権が国内企業向け貸出に及ぼした影響について検証することができます。
かつては、銀行貸出に関する研究の多くが、マクロデータないし銀行単位のデータを用いていました。しかし近年、借入を行っている家計・企業と、貸出を行っている銀行とをマッチさせたデータが利用できるようになり、上記のような形での需給の識別が可能になってきました。日本の不良債権問題についていえば、1990年代前半の不動産価格の下落や、あるいは1998~99年に行われた邦銀への公的資金注入が貸出供給に及ぼした影響を、企業-銀行マッチレベルのデータを用いて分析した実証研究があります[iii]。また筆者は、現在、日本の2000年代の金融緩和政策を背景とする長期金利の低下が銀行貸出に及ぼした影響について、やはり企業-銀行マッチデータを用いて、青木浩介氏(東京大学)らと共同研究を進めています。
本稿でご紹介した貸出需給の識別に関する新たな手法は、データさえあれば、貸出以外の分野にも広く応用可能なものです。今後、データの利用可能性の高まりにより、経済活動に関する知見がさらに深められることが期待されます。