田中 洋【略歴】
田中 洋/大学院戦略経営研究科(ビジネススクール)教授
専門分野 マーケティング戦略論、ブランド戦略論、国際マーケティング論、広告論
このたび、中央経済社から『消費者行動論』(2015年3月30日刊) という大学生向けテキストを上梓しました。筆者は同社から2008年に『消費者行動論体系』を出しています。今回の本は、この2008年版の大学院生・専門家向けで、社会心理学をベースとした『体系』の一部を「ですます体」で、わかりやすく書き改めました。同時に、最新の成果を取り入れつつ、内容をアップデートしました。
それだけでなく、本書では、これまで消費者行動論のテキストではあまり扱われてこなかった新しいテーマを新たに加えています。それが次のようなテーマです。
所有、信頼、価値、幸福、フロー体験、本物、解釈学、神聖消費、贈り物、贅沢、流行、他人指向、準拠集団、イノベーター、シェアリング、コラボ消費、コ・クリエーション、消費者イノベーション、倫理的消費、顧客満足、オンライン消費者行動。
なぜこのような改訂が必要だったのでしょうか。消費者行動論は、基本的にはマーケティング論の一部です。企業が行うマーケティング活動の主な対象が消費者あるいは顧客と考えられているため、消費者の行動を明らかにすることはマーケティング研究の重要な柱のひとつとなっています。
しかし、近年の消費者行動研究は、狭い意味でのマーケティングの対象としての消費者のみならず、大変広い領域を扱うようになりました。人間の行う活動のほとんどが「消費」と関係があることを考えればそれも当然でしょう。このために、一見、消費と直接かかわりないようにみえる概念や問題も本書では取り上げることになったのです。
本稿では、消費者行動の観点から、幸福という概念についてごいっしょに考えてみましょう。
幸福とはなんでしょうか。人間がもっとも強く求めているもののひとつが、おそらくこの幸福というものではないでしょうか。17世紀のフランスの哲学者ブレーズ・パスカルは『パンセ』の中で次のように言っています。
「すべての人は幸福を求める。そこに例外はない。考えられる手段をさまざま用いて、人はこの目標を達成しようとする。(…)幸福こそがすべての人の行動の動機となっている。首つりをしようとしている人も含めて。」(7章、425節、著者訳)。
幸福が人間にとって重要であるということは当然のことであるように思われます。しかし問題は幸福が何であるかということです。引用したようにパスカルは、自殺する人ですら幸福を求めてそうするのだ、と言っています。一体なにが幸福ということなのでしょうか。
ひとつ言えることは幸福とは主観的な経験であり、また自分自身についての考えや感情であるということです(Deci & Ryan, 2006)。その意味で幸福とは「主観的な幸せ感」と言ってもよいでしょう。主観的幸せ感は、高い肯定的な感情と低い否定的な感情、また高い満足感との三つから生まれます。うれしいとか楽しいというようなポジティブな感情と、自分が満足している状態が幸福なのです。
しかし幸福とは必ずしもこうした心理的な満足感だけではありません。私たちが毎日の生活の中の経験で感じる幸福を「快楽(感情)的な幸福」(hedonism)であるとするならば、もうひとつ別の観点があります。
それは「人生に対して感じる幸福」(eudaimonism)です。人は自分が何かを目指して一生懸命仕事をしているとき、それが大変な仕事であったとしても、幸福を感じることができます。例えば、女性が赤ちゃんを出産し育児を行うプロセスでは生活の上で大変な負荷がかかりますが、それが不幸な事態であるとは多くの女性は考えないでしょう。
人生に対して感じる幸福とは、自分の人生の在り方をあらためて顧みて感じるような幸福感なのです。つまり、心理的・感情的な幸福感が、それを目指す「目標」だとすれば、人生への幸福感は、何かの目的を達成するための「過程」に存在する感情だと言えます。
それでは幸福であるということに、実際に消費者にとってどのような利益があるのでしょうか。
幸福と健康についての医学的研究を展望したある研究報告(Veenhoven, 2008)では、幸福は、病気の状態の人の余命を長くすることはできない、という結論を述べています。しかし健康な人にとって、幸福という感情はより長寿を促進する傾向があることがわかりました。つまり、幸福には病気を治す力はありませんが、病気になることを予防し、健康を維持することに貢献していることになります。
なぜこのようなことが起るのでしょうか。もっともよく用いられる説明によれば、不幸な感情はネガティブな身体的影響を与える一方、幸福な感情はより好ましい身体的状態をつくりだすからです。不幸な感情は血圧を高め、免疫システムを低下させますが、幸福感は免疫システムを活性化させます。
それだけではなく、幸福な人々はより自分の体重に気を配り、健康情報に敏感です。さらに幸福な人々はスポーツをより多く実行し、飲酒やタバコを控える傾向があると報告されています。幸福な状態を保つことは、私たちの健康を維持することにつながると実証されているわけです。
行動経済学の分野で2002年にノーベル賞を受けたダニエル・カーネマンと同僚の研究者たちは興味深い研究を発表しています。米国の45万人という大きなサンプルを用いた幸福を探してのデータを分析し、人々が「日々感じる」幸福の感情(emotional well-being)と、「人生に対して感じる」幸福(life evaluation)に分けて考察を行ったのです。
この報告によると、「日々感じる幸福」の感情は、一定程度までは収入が上がるに連れて上昇しました。しかし、「日々感じる幸福」は年収7万5千ドル(ドル80円で計算すると年収600万円)を超えるとそれ以上は上がりませんでした。米国の世帯平均年収(中央値)は約5万2千ドル(2008年)(Median Household Income for States, 2009)なので、7万5千ドルは中の上に属する収入の範囲に相当するでしょう。
一方、「人生に対して感じる幸福」は収入とともに上がり続け、日々の幸福とは違い、上限というものが無いように見えるのです。人生に対する幸福は収入とともに増大し続ける傾向があるようです。では、低所得の人はどうなのでしょうか。残念なことに、彼らは日々の幸福、人生への幸福の両方の尺度において、低い幸福感しか感じていませんでした。
つまり幸福感のうち、「人生への幸福」はお金で買えるということになります。しかし「日々の幸福感」は一定の収入を確保してしまえば、それ以上は上がらないことになります。こうした結論を一言で言えば、「高収入は『人生に対して感じる幸福』を高めるが、『日々感じる幸福』は、一定以上は高めない」ということになるでしょう。
さて、ここまで読んできたみなさんは、幸福とはどのようなものか、うまく理解できたでしょうか。よくわかったという方もいらっしゃるでしょうし、ますますわからなくなった、という人もいるかもしれません。もしさらによく理解されたいと思う方は『消費者行動論』(中央経済社)を参照してみてください。
ここでお伝えしたいことがあるとすれば、それは、幸福だけでなく、人生に重要な問題の多くを消費者行動論あるいはマーケティング論として、取扱い、研究できるということです。このように幅広いテーマを扱う、消費者行動論あるいはマーケティングという分野について、一人でも多くの方に関心をもっていただきたいと念願しています。さらに、社会人の方には、後楽園キャンパスで展開されている、社会人のための中央大学ビジネススクールで働きながらマーケティングや戦略経営を学ぶことをぜひ考えていただきたいとも期待しています。