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池田 賢市

池田 賢市【略歴

教養講座

道徳の教科化をどう考えるか

池田 賢市/中央大学文学部教授
専門分野 教育学

道徳の「教科化」は可能か

 1958年の学習指導要領改訂によって設置された「道徳の時間」が、今後、「特別の教科 道徳」へ変更されようとしている。これまで「道徳の時間」は、教科外に位置づけられていた。しかし、それが「教科」になれば、当然、教科書が作成され、子どもに対する評価・評定がなされることになる。この点に関して、純粋に、多くの人が違和感をもつのではないか。

 そもそも道徳は「教科」になりうるのか。国語や数学等の教科には、その内容に関して科学的な正しさがあり、それを系統的に提示することができる。したがって、カリキュラムをつくることができる。しかし、道徳にそれをあてはめることができるだろうか。

 このように「道徳の教科化」に否定的な書き方をすると、「道徳を否定するつもりなのか」という声がすぐに飛んでくる。「いや、むしろ逆です」と答えるしかない。人間社会を成り立たせる重要なものとして道徳は存在している。しかし、あとでふれるように、その特性を考えると、むしろ「教科」にしてしまったのでは、その重要性が子どもたちに伝わらず、また実際的な効果という面に着目するとしても、マイナスになるとしか思えない。

思い出してみよう

 これを読んでいる多くの人は、小・中学校で道徳の時間を体験してきているはずである。思い出してみてほしい、そのとき子どもとしてどんな時間を過ごしてきたか。2つの側面から考えてみたい。

 まず、クラスでの席替えの時間や、係りの担当を決める時間にあてられ、道徳の時間が形骸化していたという感想をもつ人がいると思う。確かに、そのような実態は多い。しかし、考えてほしいことがある。その状況をなぜ「形骸化」と呼ぶのか。仮に算数の時間にそのようなことが行われていたのなら、その指摘もわからないでもないが、「道徳の時間」なのである。つまり、クラスで何かを決定しようとする場面、とくに席替えは、子どもにとっては誰の隣になるかが決定する重大局面である。だからこそ、エゴがむき出しになる場合もある。そのぶつかり合いの中から、解決の道筋を見出し、自分たちのクラスをどうつくっていくか。まさにそのプロセスこそ、道徳的課題である。そして、その解決は、その時々によって異なるダイナミックな授業展開となる。

 もう一つ思い出してほしいことがある。道徳の時間では「読み物教材」がよく用いられる。主人公の葛藤する場面が描かれ、あるいは、生命や環境の問題が扱われることもある。そして、それに対する「感想文」を書かされたのではないか。その時、本当に自分の思っていることを素直に書いただろうか。むしろ、「こんなふうに書けば先生は納得するだろうなぁ」という思いが頭の中にあったのではないか。教師が求める感想を予測する能力が磨かれたのではないか。

道徳的でなくなってしまう

 この2つから言えることは、道徳が「教科」になってしまうと、まず、何が道徳的かがそのつど変わっていく授業は不可能になる、ということである。個別の人間関係や社会的環境によって掛け算の答えが変わってしまったのでは、カリキュラムにならないように、道徳的判断は状況により異なるのであり、ある特定の行為や価値がいつも道徳的であることの条件にはならないからこそ、教科としては扱えない。このような道徳の特性を大事にするためにも、道徳の「教科化」という方法は、道徳教育にとってふさわしくない。

 また、「感想文」の例にみるように、道徳が教科になれば、このような「表と裏の使い分け」がますますエスカレートするだろう。評価・評定されるのだから、子どもたちは今まで以上に教師がどう判断するかに敏感になるだろう。他の教科であれば、教師の感覚等に配慮しなくとも、学習することは可能だが。「本音と建て前」こそ日本における道徳なのだと考えれば、教科化はふさわしいだろうが、これは皮肉の域を出ない。

歴史的な検証の欠落

 道徳の「教科化」に対しての批判として一般的によく指摘されるのは、戦前における教科「修身」の復活になるのではないという点であろう。当時の日本の道徳教育が、「教育ニ関スル勅語」(1890年)の宣示により「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」を最重要の道徳的価値とするものだったことの総括の上に「教科化」が議論されているのではないことへの不安である。「教科化」の議論は、このような教育の歴史認識を欠落させた、危うい基礎のうえに立っている。

 多くの人の不安は、「教科化」によって、国による特定の愛国心の教育が進むのではないかといった点にある。学習指導要領や改正後の教育基本法、そして学校教育法にも、いわゆる愛国心規定がある。したがって、当然、それが教科としての道徳の評価・評定基準の一つになるからである。教科化を議論した中央教育審議会は、「特定の価値観を押しつけたり、主体性をもたず誰かに言われるままに行動するよう指導したりすること」は、道徳教育の使命ではないとして、その懸念を否定しているかにみえる。

 しかし、そのすぐ後に、「これまで受け継がれ、共有されてきたルールやマナー、共同体の中で大切にされてきた様々な道徳的価値などについて(中略)一定の教育計画に基づいて学び、それらを理解し身に付け」ることを道徳教育の内容としている。「社会のルールやマナー、人としてしてはならないことなどについてしっかりと身に付けさせることは必要不可欠である」とも述べられている。少なくとも、今日の多文化状況を前提として、そのような価値の内容を吟味しなおそうとする視点がない限り、結果として「押し付け」になってしまうだろう。

権利論の欠落

 たしかに「主体性をもたず誰かに言われるままに行動する」ことの否定は重要であるが、その具体像が描けているかどうか。結論を急げば、子どもの権利条約で確認されている「意見表明権」がきわめて重要な権利保障として学校の中に位置づいていなければならない。そうでなければ、子どもたちは教員の言うままに行動することになってしまう。中教審が確認しているように、それは、道徳教育が目指すべきところではない。しかし、このような権利を基盤とした教育について、「教科化」の議論の中ではまったく言及されていない。

 人間関係は、きわめて具体的で個別的であるがゆえに、道徳的判断もそのような性質をもつ。つまり、そのつどの状況を分析し、行動選択の可能性や優先度等を考慮し、ある行動を取ることの是非を判断し、実際の行動を選択する、という過程を経る。これはとても複雑な過程であり、各人の生活のありようとも関連しており、体系化できるような一般性をもつものではない。応用不可能な一回性として、道徳は人と人との関係を成り立たせている。だからこそ、その基底に人権の尊重についての確認がなくてはならない。

みんな知っている

 それでも、「教科化」が重要だとする意見の背景には、「いじめ」問題などへの対策という課題がある。しかし、「仲良くしましょう」あるいは「ルールを守りましょう」ということが理解できていないからいじめが起こっているのだろうか。そのような徳目なら、子どもたちはみんな知っている。規範意識が薄れているから問題が起こっているのではない。学校のいまのありようが、子どもたちにいじめにつながるようなストレスを与え続けているのではないか。そのように問題の枠組みを設定し、これまでの教育政策を批判的に分析していかなくてはならない。それは決して個人の心のありように還元できる問題ではない。

どんな道徳教育が必要なのか

 幼稚園児の遊びの場面、「○○ちゃん、ずる~い!!」という声がよく聞こえてくる。子どもたちは、幼くしてすでに何が「ずるい」ことかを判断しているのである。このような、それぞれの道徳的判断基準をもった子どもたちが小学校にやってくるのである。当然、そこでは価値のぶつかり合いが起こる。今日の多文化・多言語・多宗教といった状況にあって、その調整は社会的課題でもある。そこでは、各人が身に付けている価値判断そのものが揺さぶられる。

 このような多様な価値のぶつかり合いの中から、いかに合意形成をしていくかが道徳教育に問われているのではないか。これは、徳目の列挙では太刀打ちできない、きわめて柔軟な思考と実践が求められる。これを単純に「多様性の尊重」と言ってしまうと、どうも「軽すぎる」気がする。実際の人間関係の中でどう行動するか、楽観的には対応できない真剣さが求められよう。人々が「多様である」ことは、各個人に着目すれば当たり前のことであり、その否定は論外であるが、その多様性ゆえに社会が存続していける(持続可能性)といった側面も着目されなければならない。一つの価値しかなければ、さまざまな変化には対応できないからである。道徳は、個人の価値の問題であるとともに、社会的な問題でもある。

 このようなプロセスを「教科」として展開していくことは、原理的にできない。そのような性質のものとして教科としての道徳を展開すればよいとの意見があるかもしれない。しかし、それならすでに学校現場で、現実的課題として取り組まれている。むしろ、各学校でのそのような実践を支援する環境づくりが必要である。

「グローバル化」や「社会の急速な変化への対応」という教育改革の際の常套句を本気で考えるなら、「道徳の教科化」は役に立たない。

池田 賢市(いけだ・けんいち)/中央大学文学部教授
専門分野 教育学
1962年、東京都足立区生まれ。筑波大学大学院博士課程教育学研究科中退。博士(教育学)。盛岡大学、中央学院大学を経て2005年から中央大学に勤務。大学では、国際比較教育学、教育制度・行政学などを担当。専門は、フランスにおける移民の子どもへの教育政策。1993~94年、フランスの国立教育研究所(INRP・パリ)に籍を置き、学校訪問などをしながら移民の子どもへの教育保障のあり方について調査・研究。最近は、インクルージョンに舵を切ったフランスの障害児教育制度改革についても検討している。
主に著書として、『フランスの移民と学校教育』(明石書店)、『世界の公教育と宗教』(共著、東信堂)、『教育格差』(共編著、現代書館)、『法教育は何をめざすのか』(編著、アドバイテージサーバー)など。