中村 真【略歴】
中村 真/中央大学理工学部教授
専門分野 素粒子理論
皆さんは「理論物理学」と聞くと、どのようなことを思い浮かべるでしょうか? アインシュタイン、ホーキング、湯川秀樹、あるいは2008年ノーベル物理学賞の小林誠・益川敏英・南部陽一郎の三氏でしょうか。ためしに、大学の物理学科のホームページをいくつかご覧になってみてください。たくさんの研究室が名を連ねていることと思います。そのたくさんの研究室は、いわゆる「実験」を行っている研究室と、そうでない研究室に大別されます。大雑把に言えば、この「実験を行っていない研究室」が理論物理学を研究している研究室です。一言で理論物理学と言っても、多くの研究分野に細分化されていることが、お分かりになると思います。ここでは、この理論物理学の中に今起きている、あるいはこれから起きるかも知れない、「静かな再編の動き」について、皆さんにご紹介したいと思います。
理論物理学とは、物理、つまり物の理を理論的に探求する学問です。従って、研究対象は「物の理」になりますが、この研究には3つの方向性があると言えます。
一つは、この世に存在する物質を可能な限り細かい要素に分割し、その微少な構成要素の基本性質を明らかにしようとする方向性です。皆さんも、物質は原子からできていて、その中には原子核と電子があり、さらに原子核の中には陽子や中性子が入っている、という話を聞いたことがあるかも知れません。この陽子や中性子をさらに細かく見ると、クォークと呼ばれる構成要素が3個含まれているのですが、2008年にノーベル物理学賞を受賞した小林・益川 両氏の業績は、クォークには6種類以上あるはずだ、と言い当てたことでした。このクォークや電子のような微少な構成要素を「素粒子」と言います。神岡の実験施設で検出されて小柴博士らのノーベル賞受賞につながったニュートリノも素粒子の一種です。物理の研究には、このように、より細かい構成粒子を探求し、その基本的な性質を明らかにしていく方向性があり、これをここでは広い意味で「素粒子物理学」と呼んでおきます。
もう一つの方向性は、大きなスケールの物理に着目する方向性です。大きなスケールとは、そう、この宇宙です。この宇宙はどのようにして誕生したのか、銀河の集団はどのように動いていくのか、そのような、距離的にも時間的にも大きなスケールでの研究です。宇宙の研究では重力が意味を持ってきます。なぜならば、電気にはプラスとマイナスがあり、引力も斥力もあって、互いに打消し弱めあうことが可能ですが、重力には引力しかなく、弱めあうことはありません。従って、いろいろな物質が含まれる宇宙のスケールで効いてくるのは、主に重力となるのです。従って、宇宙の研究は重力の研究と密接に関係しています。この重力は、「一般相対性理論」というアインシュタインが発見した理論でうまく説明されることが分かっています。皆さんも「ブラックホール」という、光さえも吸い込む天体の話を聞いたことがあるかも知れません。このブラックホールもアインシュタインの一般相対性理論によって、その存在が予言されました。
物理学の第三の方向性は、粒子がたくさん集合したら何が起きるかを研究する方向性です。構成粒子個々の性質よりも、集団としてどのような現象を起こすのかを調べる方向性です。人間に例えれば、個々の人間の細かな性格よりも、それらが何万人、何億人と集まった時の社会としての大きな動きに着目する考え方だと言えるでしょう。物質で言えば、水の分子が1個しかなければ、それは分子固有の性質を調べることになりますが、水の分子が非常に多く集まると、集団としての別の性質、例えば流体としての性質が現れます。このように多数の粒子の集団としての性質を研究する方向性を「統計物理学」と言います。我々が日常生活で触れる物質は、ほぼ例外なく無数の原子の集まりですので、我々の生活は統計物理学と密着していると言えます。
これらの素粒子理論、重力理論、統計物理学という三つの流れは、今までお互いに関係を持ちながらも、ほぼ独立して進歩を遂げてきたと言っても良いでしょう。しかしながら、最近、これらを一まとめにして扱う新たな手法が現れてきました。
素粒子理論は物質を可能な限り細かく分割して素粒子の基本的性質を解明しようとします。その過程で、物質の基本的な構成要素は点のような粒子ではなく、長さを持った弦ではないか、というアイディアが出されました。これが超弦理論です。ノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎博士も、このアイディアの提唱者の一人です。この超弦理論を研究してゆくと、ある種の重力理論は、別の素粒子理論の「書き換え」として理解できることが分かってきました。従って、素粒子の集団が従う統計物理学は、重力理論の話に「書き換える」ことが可能となるのです。この意味では、もはや三つの流れは互いの書き換えであって、互いに無関係な話ではないということになります。
この互いの流れの間の関係性は、専門用語では「ゲージ・重力対応」あるいは「AdS/CFT対応」と呼ばれています。この対応を駆使して、これまでとは異なる方法で物理学上の問題にアプローチする試みが始まっています。例えば、統計物理学上の未開拓の研究分野に「平衡統計物理学」と呼ばれる分野があります。これは、粒子の集団に動きがあったり、外から力が加えられたりする時に現れる「非平衡状態」と呼ばれる状態を扱う研究ですが、現時点では未解明の部分がまだ多く残されています。それでいて、我々の日常生活で目にする現象の殆どは「非平衡状態」ですので、大変重要な研究です。この非平衡状態を「ゲージ・重力対応」で書き換えると、重力の問題に置き換わってしまう場合があります。そして、重力理論の問題として捉えなおすと、問題が簡単に解ける場合もあるのです。これは、非平衡物理学に対する、今までにない新しい方向での研究です。
このように、既存の物理学の流れを横断して一まとめに扱うような流れが、今、静かに生まれつつあります。しかし、この新たな流れも、100年前に活躍した天才物理学者の仕事の中にその源流があると言えるのかも知れません。
物理学者は、1905年を「奇跡の年」と呼びます。それは、かの天才物理学者、アインシュタインがノーベル賞に匹敵する理論を3種類も発表した年だからです。その理論とは、「相対性理論」、「光電効果」、そして「ブラウン運動」の理論です。皆さんも「高速で飛行するロケットの上では時間の進み方が遅れる」という不思議な現象を、SF物語で読んだことがあるかも知れません。これは相対性理論(特殊相対性理論)から得られる結論の一つです。この特殊相対性理論を発展させたのが、重力の理論である一般相対性理論でした。しかし、アインシュタインがノーベル賞を受賞したのは「光電効果」と呼ばれる別の業績に対してでした。光電効果とは、光を物質にあてた時に電子が叩き出される現象ですが、この理論は量子力学と呼ばれる現代物理学の基礎を構成する上で重要な働きをしました。そして、忘れてはならないのが、「ブラウン運動」に関する論文です。ブラウン運動とは、水のような媒質に微粒子を浮かべた際に、微粒子が行う乱雑な運動のことですが、このブラウン運動の理論は、先に述べた非平衡物理学の先駆けとなりました。一年の間にノーベル賞に匹敵する業績を三つも挙げるとは、全く驚嘆するばかりです。
ここで感心させられるのは、非平衡物理学の先駆けであるブラウン運動の理論も、重力の基礎理論である一般相対性理論も、100年前にアインシュタインが端緒を開いた理論だったということです。100年前、恐らくアインシュタインは、これらの異なる理論が互いに関係しているとは想像もしなかったでしょう。誤解を恐れずに言うならば、彼の作った理論は、彼本人より「賢かった」のです。
今、ゲージ・重力対応を用いて非平衡物理学を研究しようという動きが徐々に注目されつつあります。私の専門は、もともと超弦理論ですが、最近は非平衡物理学という異分野の研究集会に呼ばれることも多くなりました。
アインシュタインが亡くなって50年以上が経ちましたが、我々物理学者は、まだアインシュタインの手のひらの上で研究をしているのかも知れません。
研究室ホームページ
http://www.phys.chuo-u.ac.jp/labs/nakamura/index.html