関 礼子【略歴】
―樋口一葉の二人の先生―
関 礼子/中央大学文学部教授
専門分野 日本近代文学 表象論 ジェンダー論
近年、話題になった本の一冊に四方田犬彦『先生とわたし』(新潮社、2007年)がある。これは比較文化および映画史の四方田が東大教養学部時代に出会った恩師、由良君美との激しくも鮮烈な師弟関係を描きだした書として記憶に新しい。また、現在『朝日新聞』に夏目漱石の「心」が100年ぶりに連載されて話題になっているが、興味深いのはタイトルと共に「先生の遺書」という副題が挿入されていることである。この副題では、「先生」と呼んで私淑している一人の大学生がその師からの「遺書」を受け取る物語ということになり、それを意外に思った読者もいるかもしれない。少なくとも近代文学において師弟関係を含意するこの副題は、「近代人の孤独」を「心理小説」的手法で描いたとされる作品の定評とは異なるものを暗示しているからである。
しかし、「師弟関係」は古風でもなんでもない、古くて新しい人間関係の一つの形である。その出会いが人の一生を左右する大きな分岐点になることは、時代や洋の東西を問わない真実であろう。たとえば私が研究している樋口一葉(1872~96)にも、師と呼ぶ人が二人存在した。一人は、一葉が最初に職業小説家としての手ほどきを受けた半井桃水。彼は漱石が入社する19年も前から『東京朝日新聞』の専属小説記者だった。対馬藩典医の長男だった桃水は、地の利を活かして新聞特派員のような仕事を務め、やがて上京して筆一本の職業作家となった。面倒見の良かった彼は、父兄を亡くして家計に苦しんでいた樋口家を背負う若き女戸主の一葉に暖かい手を差し伸べ、新聞小説の手法を一から教えることになる。2009年、長らく行方不明だった初出紙が発見された一葉の初期作品『別れ霜』(『改進新聞』1892年3~4月)は、「後追い心中」をテーマとする小説である。これは一葉の登場期を語るうえで貴重な作であり、女弟子であった一葉が師から差し出された「心中」という小説趣向を彼女なりに消化したという意味でも興味深い作品となっている(詳しくは拙著『女性表象の近代』翰林書房、2011年を参照されたい)。
もう一人の師が、小学高等科第四級を修了した一葉が進学を諦めて入塾した歌塾 「萩の舎」の主宰者中島歌子である。彼女は小石川にあった水戸藩の定宿の娘で、幕末に「桜田門外の変」など尊王攘夷で沸騰する水戸藩士、林忠左衛門に自ら望んで嫁ぐ。しかし、夫は「天狗党」の一員として藩政の混乱のなかで幽閉中に亡くなり(切腹説もある)、自らも一時獄舎の人となる。やがて歌子は亡夫も嗜んでいた歌道に志し、藩邸からも実家からも近い小石川水道町で「萩の舎」を開き、そこに一葉が入塾したのを機に師弟関係が結ばれた。
だが、この師弟関係は順調とは行かなかった。先の四方田の書が語っているように、優れた師ほど乗り越えがたく、優れた弟子ほどその壁に挑戦しようとし、時には双方が「裏切り」の感情にも似た烈しさで切り結ぶ瞬間があるからだ。恋愛に発展しても決して不思議でない桃水と一葉という31歳と19歳の師弟関係は一年半ほどであっけなく封印される。それを推し進めたのは中島歌子を中心とする「萩の舎」の女性たちだった。伝統的な和歌を柱とする萩の舎は一葉が新聞小説作家と親しく交流することを許さなかったのである。
ところでごく最近、直木賞を受賞した朝井まかて『恋歌』(講談社、2013年)は、歌子の一番弟子で一葉の姉弟子でもあった三宅花圃の視点から、師の亡くなる直前に彼女の残した書き物を読むという小説スタイルになっている。朝井がこの本を書くきっかけとなったのは、歌子の詠んだ次のような歌であるという。
君にこそ恋しきふしは習ひつれさらば忘るることもをしへよ(『恋歌』261頁)
この歌には実は詞書(歌が詠まれた折りの状況を説明する言葉)に近い歌題「いひかはしける人の今は思ひ忘れぬといへりければといふことを題にて」がある(中島歌子『萩のしつく』下「恋」の部。1908年初刊、1929年再刊。引用は山根賢吉『樋口一葉の文学』桜楓社、1976年、220頁)。歌子の詠歌法は中世期に確立された伝統的な和歌の方法である「題詠」(与えられた歌題で歌を詠む)の最後期に属するものだった。朝井は近年では見落とされがちな幕末の水戸藩を背景にして殺傷事件が横行する政治的な混乱状況だからこそ、平時には「月並」といわれもする恋情も、「普遍的な感情」として和歌という小さいが強固な器のなかで輝きを放つことを示したのだといえよう。
では、こんな情熱的な恋歌を詠んだ師をもつ一葉は幸せだったかというと、事はそう簡単ではなかった。一葉が入塾した頃の歌子先生は鍋島侯爵夫人やその他名門の妻女への出稽古、若い子女は小石川の安藤坂にあった塾で教えるという東京の名高い女性歌人だった。幕末に動乱のなか「二千人に近い犠牲者が出た」(山川菊栄『武家の女性』岩波文庫、1983年、156頁)といわれる水戸藩の内紛に終止符が打たれ、近代日本の成立によって和歌は宮中の御歌所のもとに配置されたことで、かつての情熱的な詠歌よりも安定的な歌風へと歌子も舵を切ることになる。たとえば、歌子は一葉が入塾間もない頃の発会での競作の折り、以下のような一葉の「月前柳」という題詠歌に最高点を与えた。「打ちなびく柳を見ればのどかなる朧月夜も風はありけり」(明治20年作)。「柳の葉が揺れているが見えるので、静かで心落ち着くこの春のおぼろ月夜にも、風が吹いているのですね」という、ほとんど写生に近い歌である。「実情実景」を重んじた歌子らしい指導による詠歌といえるが、どうも生真面目すぎて堅苦しい。
やがて一葉は歌塾で培った「実情実景」という和歌の理念を武器とし、しかし、それを禁じ手にすることで小説散文という近代の新しい文学ジャンルに魅せられていく。そのとき、「和歌的なるもの」や趣向主義という「新聞小説の技法」は作家一葉のなかで影を潜めるが、潜在化することで逆に、あらゆる階層の人間たちが活き活きと登場する小説散文に力を与えるようになる。歌子先生や桃水先生と出会ったからこそ、一葉はそれを超える力を獲得したといえよう。
もちろん、二人の先生との別れの代償もあった。一葉の代表作の一つである下層の酌婦をヒロインとした小説「にごりえ」に対しては、歌子は新聞紙上で辛口評を吐露する。作家としての一葉の名声が高まるにしたがい、歌子との距離はおおきくなっていく。いっぽう桃水との別離の折りには、一葉はその心情を次のような二首に託していた。
降る雪にうもれもやらでみし人のおもかげうかぶ月ぞかなしき
わがおもひなど降るゆきのつもりけんつひにとくべき中にもあらぬを
(『樋口一葉全集』第三巻(上)筑摩書房、1976年、199頁)
先に引いた歌子先生の恋歌にも離別に近い情は感じられるが、そこにはそこはかとない甘えが揺曳している、これに対し「面影」という、恋する人の不在ゆえに成立つ歌語や、降る雪と恋する人への思いの持続を重ねた一葉の歌は別れの悲しみに満ちている。同性の歌子先生からの離反と異性の桃水先生との離別と、どちらが重かったかなどとは問うまい。確かなのは、近代文学史上の大きな転換期における二人の師との出会いによって一葉文学が羽搏いたことである。