近藤 まりあ 【略歴】
近藤 まりあ/中央大学経済学部准教授
専門分野 アメリカ現代小説、ユダヤ系アメリカ小説
2011年3月11日に東日本大震災が起こった後しばらくすると、これを題材とした小説が出版され始めた。作家たちが悩み、試行錯誤しながら執筆した小説は、今なお出版され続けている。言語化を拒むような惨事をいかに言語化するか。多くの死者や被害者について、作家には語る権利があるのか。こういった問題は、私の研究しているアメリカ現代小説においては、2001年の同時多発テロ事件をめぐる作品によって考察できる。この事件に関する作家たちの発言や作品を、アメリカ現代作家ポール・オースターを中心として紹介したい。
ポール・オースターが脚本を書き、ベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞した映画『スモーク』(ウェイン・ワン監督、1995年公開)は、ニューヨークの下町ブルックリンの小さな煙草屋にやってくる人々をめぐる物語である。煙草屋の主人オーギーと、妻を亡くした作家のポール、そしてラシードという青年の3人が織り成すストーリーに加え、この映画のもうひとつの魅力は多彩な脇役たちにある。アフリカ系・イタリア系・アジア系など、さまざまな人種の登場人物たちは、煙草屋・作家・ガソリンスタンド店主・馬券売り・書店員などを生業としている。
このような設定の背景については、ブルックリン在住のオースター自身が94年のインタビューで説明している。ブルックリンにはあらゆる人種・宗教・経済的階級の人が住んでいる。そのため憎悪や暴力が生じ得る場所なのだが、住民たちは共存しようと努力し、なんとかうまくいっている。オースターはこれを「奇跡」であると述べ、ブルックリンを含めたニューヨークを賛美している。
この『スモーク』の続編で、やはりブルックリンが舞台の『ブルー・イン・ザ・フェイス』という映画を、オースターは「ブルックリン人民共和国への賛歌」だと言っている。これら2本の映画をあわせて、オースターによる「ニューヨーク賛歌」であると考えてもよいだろう[1]。
実際ニューヨークの街は、多種多様な人種の住民から成り立っている。そこに暮らす人々に声をかけてみれば、幾通りもの、アクセントの異なる英語に触れることができる。彼ら彼女たちの多くは英語を母語としない移民であり、アメリカ国勢調査局のデータによれば、ニューヨーク市の約半数の住民は、自宅では英語以外の言語を用いている。
しかし、2001年9月11日、オースターの愛する街ニューヨークで、同時多発テロにより世界貿易センタービルが崩壊する。上述のインタビューの7年後である。この想像を絶する事件の直後、アメリカに住む多くの小説家や詩人たちにはインタビューや原稿の依頼が殺到した。
たとえば事件の翌々週、9月23日には既に『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』が特集記事を掲載している。多くの作家がエッセイを寄稿しているが、そのうちの一人リチャード・パワーズ[2]は、以下のように述べている。事件について知った時、彼はイリノイ大学の小説創作クラスで教えるため授業に向かおうとしていた。この日のクラスで彼は、直喩(「~のような」等の語を用いて事物を比較する修辞法)について教えるつもりだった。ところが、タワー崩壊後のメディアは直喩で満ち溢れていた。「その衝撃は真珠湾攻撃のようだった」、「ロウアー・マンハッタンは、地震後の街のようだった」……。しかし「いかなる比喩も、われわれに起こったことを表現し得ない」と、とてつもない現実を前にした際の言葉の無力さをパワーズは強調する。
またその翌日、9月24日には『ニューヨーカー』が、テロについてさまざまな側面から論じた作家や思想家の記事を、特集として掲載している。ジョン・アップダイク[3]は、1マイルも離れていない場所で世界貿易センターが崩れ落ちる様子を目撃し、それを詳細に再現している。
その後のインタビューで小説家たちにしばしば向けられた質問に、「9.11はあなたの小説作品に反映されるか」というものがあった。それに対して、多くの作家たちは非常に慎重に答えている。彼らが危惧していたのは、小説が作者の政治意識に左右されることであり、また、時代に流された小説を書いてしまうことだった。仮に小説化するとしても、長い時間が必要だと言う作家もいた[4]。
この言語化を拒むような事件について、それでもなお、やがていくつもの小説が書かれることになる。それがいかに難しいかは、それらの小説に向けられた批判を見れば分かる。
たとえば、ジョナサン・サフラン・フォア[5]は、この事件を題材に『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(2005)という小説を書いた。そこでは、テロで父親を亡くした9歳の少年が、亡くなった父親のクローゼットから鍵を見つけ出す。その鍵が何を開くためのものなのかを知るために、彼はニューヨークの街中を歩き続ける。彼にとってこの行為は、父親の伝えたかったことを知り、既に亡くなってしまった父親をもう一度探し出すための行為である。
この小説は映画化もされ(2011年公開)、多くの読者を得たが、その一方で批判もある。それはひとつには、事件そのものの描き方についてである。多くの死者を出したこの事件が、読者を感傷に浸らせるための道具になっているのではないか。また、この作品の実験的な構成に触れ、深刻な事件を扱うにしては遊び心が過ぎるのではないか、という批判もある。
これらは、9.11を扱った小説に対してしばしばなされる批判とも重なっている。この歴史的な出来事を言語化し、フィクションに置き換えるには、作家の力量だけではなく、真摯な態度(不謹慎ではないか)、政治的な立場(を表明しすぎてはいないか)、事件の歴史的な意味を描けているか、等が時に過剰に問われることになる。
では、先述したポール・オースターは、この出来事についてどのような作品を書いているだろうか。まず、テロからちょうど2カ月後、2001年11月11日の『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』に掲載されたオースターのエッセイを見てみたい。
語り手は、ニューヨークの混雑した地下鉄車内の様子を描写する。英語以外の言語で書かれた新聞の数を数え、さまざまな肌の色や顔立ちの乗客たちを眺める。そしてその多様性を詳細に表現する。やがて突然列車が止まり、照明が消える。だがこの多様な乗客たちは騒ぎ立てることもなく、静かに、暗闇の中、列車がまた動き出すのを待つ。
一見、ニューヨーカーたちの日常のひとコマを描き取ったような、非常に短いエッセイである。テロ事件とは何の関係もないエッセイとしても読むことができる。しかし、多様な言語、宗教、文化、そして政治的立場を持つであろう人々がすし詰めになっているこの列車は、ニューヨークという街そのものを思い起こさせる。列車が突然止まり、照明が消えるという非常事態にありながらも共にこの列車に乗ってゆく多様な乗客たちを、語り手は見守っている。
だが現実には、その後アメリカはアフガン侵攻を経て、イラク戦争に向かって突き進んでいく。この時期、つまりブッシュ大統領の先導する「テロとの戦争」がアメリカ合衆国全体を覆いつつあった時期、オースターは『ニューヨーク・タイムズ』(2002年9月9日号)に寄せたエッセイで、“USA OUT OF NYC”(アメリカはニューヨークから出ていけ)という言葉を引用している。そして、ニューヨークが合衆国から脱退し、独立都市国家になる可能性について言及する。
その後6年を経て、このアイデアはオースターによって小説化された。『闇の中の男』(2008)である。小説では、ブッシュが勝利した2000年の大統領選をきっかけに、ニューヨーク州を中心とした16州が合衆国からの脱退を宣言し、アメリカは2度目の内戦状態となるという設定のパラレル・ワールドが描かれる。作者のブッシュ政権批判がきわめて明確に読み取れる一方で、語り手とその娘、孫娘の3人が、それぞれに抱く恐怖感・喪失感・絶望から少しずつだが解き放たれていく過程が描かれている。
オースターの、多様性を賛美するという意味での「ニューヨーク賛歌」は、95年の2本の映画から読み取ることができた。そしてそれはやがて、オースターにとっての、9.11へのアプローチ方法のひとつとなった。
9.11に関しては、さまざまな作家がそれぞれの方法で対象に迫り、何とかひとつの作品として描きとろうとしている。それらの作品に対してなされる批判が必ずしも正しいとは限らない。それらの作品から何をどう読み取るかは、私たち読者ひとりひとりに委ねられている。
*本稿は、『草のみどり』第220号(2008年11月)掲載稿に大幅な加筆・修正を施したものである。