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松野 良一 【略歴】
松野 良一/中央大学総合政策学部教授
専門分野 メディア論、ジャーナリズム論
写真1:約5年間のプロジェクト活動の成果をまとめた「沖縄問題」の証言集
2008年からFLPジャーナリズムプログラムの活動として取り組んできた沖縄問題に関する証言記録プロジェクトが一段落し、その成果を一冊の書籍として刊行した。タイトルは『証言で学ぶ「沖縄問題」 観光しか知らない学生のために』(中央大学出版部)。のべ30人の学生が関わり、約5年間に渡って、沖縄を訪れて取材を続けて来た。「沖縄問題」に関する計26人分の証言が収められている。
証言内容は、3分野から構成されている。第1部:沖縄地上戦、第2部:戦後の沖縄、第3部:沖縄と米軍基地。この中には、取材活動で新しく発掘した証言、あるいは時代から忘れ去られようとしている事件の証言を改めて記録したものも含まれている。
今回初めて証言された方の中には、「東京の学生さんがわざわざ来てくれるんだから、話します」という方もいらっしゃった。集団自決の現場からかろうじて逃れ孤児として生き延びた少年、コザ暴動で嘉手納基地に突入し米兵の車を焼いたロック歌手、重傷の同級生に手榴弾を渡した鉄血勤皇隊員などである。
写真2:普天間基地には、配備されたオスプレイが並んでいた(2014年2月撮影)
また、時代の流れの中で風化しつつある沖縄問題の証言も扱っている。戦争マラリアと陸軍中野学校、尖閣列島戦時遭難事件、「沖縄のガンジー」と呼ばれた反基地運動家、「沖縄福祉の母」島マス、などのテーマがそうである。
そして、学生が取材するには難しいのではないかと思われた現代の沖縄問題にも挑戦して、いくつかの証言を記録することができた。例えば、沖縄密約事件(外務省機密漏洩事件)、普天間基地移設と辺野古問題などである。
私自身、沖縄問題について、テレビによって印象づけられた世代である。嘉手納基地からベトナムに向けて出撃するB52爆撃機、コザ暴動、沖縄密約事件、沖縄返還と佐藤栄作首相の退陣など、小学生から高校生に至るまで、ずっとテレビで沖縄問題を見続けて来た。日本の敗戦と米軍による統治、米軍基地と住民運動、米国の世界戦略。「沖縄」は、我々の世代の問題意識を否が応でもかきたててきたのである。
では、なぜこの沖縄問題をFLPゼミのプロジェクトとして取り組むことにしたのか。それは、「沖縄問題」はジャーナリズムのテーマとして極めて重要であるにもかかわらず、学生の意識が低すぎることに気付いたからである。
沖縄出身の学生とそれ以外の学生には、それぞれに課題がある。沖縄出身以外の学生に、沖縄と聞いて何をイメージするかと聞くと、エメラルドグリーンの美しい海、琉球の独自文化、沖縄料理、その後に米軍基地と続く。つまり、「観光地」のイメージが先行しているのである。
写真3:「沖縄のガンジー」とも呼ばれた阿波根昌鴻(あはごん しょうこう)さんについて、農家の方から取材する学生たち(伊江島にて)
一方で、沖縄出身の学生にも課題がある。それは、小学生から郷土学習で、地上戦や基地問題を教えられているが、逆にそれが心理的飽和状態を引き起こしていて、特段の関心をもたなくなってしまっているのだ。それよりも、東京にやって来た感動の方が先にあって、「なぜいまさら田舎の沖縄の問題をやらなければならないのでしょうか?」と言われる始末だった。
簡単にいうと、沖縄出身以外の学生は観光地というイメージが先行し、暗い話題はいやだといい、逆に沖縄出身の学生は、戦争と基地問題は当たり前すぎていて、逆に関心がわかない、という課題があるのだ。「きれいな海岸でバーベキュー」には乗るが、「地上戦や基地問題は遠慮したい」というのが両者の共通点なのである。
私は、「きれいな海岸でバーベキュー」提案は採用しながらも、沖縄戦の戦跡3か所を巡ることを条件に、ゼミ合宿を兼ねて沖縄を訪れることにした。その3か所とは、旧海軍司令部壕、ひめゆりの塔、平和祈念公園である。そして、その戦跡で、ガイドさんや語り部の人たちと会話し交流する体験を持った。この初歩的なツアーをきっかけにして、学生たちの問題意識が少しずつ高まり、沖縄地上戦、普天間基地と辺野古などの問題へ議論の領域を広げていけるようになった。こうして「観光しか知らない学生」たちによる「観光しか知らない学生」のための証言記録プロジェクトは始まった。
今回書籍に収めた証言の中で、最後に取材を行ったテーマと担当した学生の成長について述べておきたい。
野崎智也(総合政策学部4年、取材時2年)がテーマにしたのは「八重山戦争マラリアと陸軍中野学校」である。沖縄戦と言えば、沖縄本島の地上戦を思い浮かべるが、八重山諸島でも、軍命による強制疎開でマラリアに感染し死亡した犠牲者が3500人以上に上っている。この一連の強制疎開、マラリア感染、住民の大量死については、陸軍中野学校との関係が指摘されている。波照間島には、1945年2月に、山下虎雄(偽名、当時24歳)が青年学校の指導員として来島した。初めは優しくて評判も良かったという。3月下旬になって軍から南風見(はえみ)地区への疎開命令が出されたが、島民たちは同地区がマラリア有病地であり、以前あった村も感染によって廃村になっていると反対した。すると、山下は「反対する住民に対して顔を真っ赤にさせて怒り、自分の言うことに反対する者はこの日本刀で斬ると脅し、『疎開しなければ井戸に毒をいれ家も焼き払う』『1人でも島に残る者があれば全員首をはねる』と言った」という(『沖縄県史』第10巻)。
写真4:西表島南風見田に建つ識名先生の銅像。見つめる先には波照間島がある。
結果的に4月8日に、波照間島民は西表島への疎開を開始した。しかし、マラリアはすぐに猛威をふるい始めた。島民全滅を危惧した波照間国民学校の識名信升(しきな しんしょう)校長は、八重山地区を統轄していた旅団長に対し、帰島を2度に渡って直訴した。そしてやっと許可を得て、8月7日に波照間島へ戻った。しかし、マラリア感染は収まらず、結果的に、島民人口1590人のうち99・8%の1587人が罹患し、約30%にあたる477人が死亡した(八重山福祉保健所)。
野崎は、識名校長の教え子で、マラリアに感染した仲底善光さん(79歳、当時10歳)にインタビューを行った。仲底さんは、山下なる人物についても良く覚えていた。
「私が国民学校4年生だったころ、山下さんが波照間に突然やってきました。女性なら誰でも惚れてしまうぐらいかっこいい男性だったことを覚えています。彼は一気に島の有名人になりました。それが、疎開命令が下ると豹変し、軍刀を持って威嚇しました。なぜ別人のようになったのだろうと、私は裏切られたような感情を抱きました。若い男性は兵隊に取られていたため、島には子供やお年寄り、女性しか残っておらず、山下さんには逆らえませんでした。家畜も全部殺せと言われましたが、力の弱い子供、女性、お年寄りでは、全部殺しきれませんでした」
写真5:西表島風見田に残された「忘勿石」。砂をかけてやっと読める。
さらに西表島では、体罰によって生徒が死亡したことも証言している。
「西表島の疎開先で、山下さんから『ハエを殺せ』と言われました。竹の筒を渡され、一杯になるまでハエを殺さないと、その筒で殴られました。山下さんの命令で、筒を一杯にできなかった先輩が国民学校の教師に殴られ続け、最後は傷口からバイ菌が入って発熱し死亡しました。このことは、今でも忘れません」
疎開場所だった西表島南風見田の海岸には、識名校長が波照間島に帰る際に彫った「忘勿石」(わすれないし)が残されている。野崎は、その場所にも足を運んだが、現地でその石に刻まれた言葉をなかなか見つけることができなかったという。
「これが忘勿石だと言われても、読み取ることができなかった。白い砂をかけることで、ようやくその文字が浮き出て来た。『忘勿石 ハテルマ シキナ』。いずれ、この刻まれた文字は消えてしまう。この波照間島の悲劇は、絶対に忘れられてはならないと思った」
野崎は、プロジェクト報告書の中で、最後にこうまとめている。
「山下なる人物に、関係者はみな憎しみを覚えていた。しかし、同時に、『山下さんも、戦争というものの犠牲者じゃないだろうか』と話した。八重山の人たちの優しさ、そして事件の本質を的確に見抜いた言葉だと思った」
2014年2月。この証言集を刊行するに当たって、表紙と裏表紙に載せる写真を撮影しに、沖縄に行った。最初に、宜野湾市の普天間基地に向かった。滑走路には、配備されたオスプレイが並んでいた。そして、次に普天間基地の移転候補地となっている名護市の辺野古を訪れた。
写真6:普天間基地の移転候補地となっている名護市の辺野古の海岸(2014年2月撮影)
つい最近まで、海辺を区切っていた鉄条網は、立派なフェンスに変わっていた。そのフェンスには、カラフルな旗がくくり付けられていた。「命宝(ぬちどぅたから)」という文字が目に入った。そして、その隣には「米国海兵隊施設」のプレートがあった。
沖縄問題は、解決の糸口をつかめないまま、いまだに「問題」であり続けている。イデオロギーや政治的立場は抜きにして、この現実をどう解決したらよいのか、これからも学生たちといっしょに考えていきたい。