南 映子 【略歴】
南 映子/中央大学経済学部助教
専門分野 ラテンアメリカ文学、ラテンアメリカ地域研究
今年のゴールデンウィーク期間中、「シンコ・デ・マヨ」のフェスティバルが東京と大阪の3会場で開催された。
「シンコ・デ・マヨ」とはどんなお祭りか。一つの団体のウェブサイトでは「スペイン語で5月5日を意味する、楽しいメキシコの祝日」だと解説され、「本場のメキシカンフードを食べよう!」というキャッチコピーがある[1]。別の団体は、「メキシコで始まり、アメリカで広まったラテン文化のフェスティバル」であり、「アメリカ国内では、アイルランドのセント・パトリックス・デイや中国の旧正月などと並ぶ規模」のものだと説明している[2]。これらの催しには、メキシコやラテンアメリカの音楽・パフォーマンスのステージ、食べ物や飲み物などが用意されていた。さて、この祝日にはどんな由来があるのか。
「シンコ・デ・マヨ(Cinco de mayo)」は、1862年の5月5日、ナポレオン3世がメキシコに送った侵略軍をメキシコ軍がプエブラ市近くで迎え撃ち、イグナシオ・サラゴサ将軍率いるメキシコ軍が勝利したことを記念する祝祭である。パレードを行ったり、音楽やダンスのショー、メキシコ風の食べ物や飲み物を楽しんだりするお祭りとしてアメリカ合衆国全土に広まっており、なかでも、ラティーノ(中南米、特にスペイン語を母語とする地域からアメリカに移住した人びととその子孫で、多くはメキシコ系)が人口の半数近くを占めるロサンゼルス市で開催されるシンコ・デ・マヨは圧倒的な集客力を誇り、新聞やテレビでは道路が人で埋めつくされる様子が報じられている。
ただし興味深いことに、メキシコでは、プエブラでの戦勝を記念する式典はあってもアメリカのような賑やかな祝祭はない。道路に多くの出店が出たり広場にステージが設営されて大勢の人で溢れたりするようなお祭りといえば、独立記念日の9月15~16日である。
また、アメリカでシンコ・デ・マヨを祝うラティーノたちの間にも、その由来を知らない人や、メキシコの独立記念日だと勘違いしている人が少なくないという。
アメリカでみられる「5月5日はメキシコの独立記念日だ」という誤解は、単なる思い込みというだけでなく、ホワイトハウスのスピーチのような公的な言説の影響もあるようだ。
ラティーノ(この呼称が定着する前は、ヒスパニックと呼ぶのが通例だった)の人口増は留まるところを知らず、2000年のアメリカ国勢調査では総人口の12.5%を記録し、その割合は2010年の時点で16.5%に達した[3]。こうした情勢を受け、2001年以来ほぼ毎年ホワイトハウスでシンコ・デ・マヨのレセプションが行われ、メキシコやラテンアメリカの外交官、ラティーノの要人たち、そしてエンターテイナーらが招かれている。オープニングのスピーチでは、ジョージ・W・ブッシュ、バラク・オバマ両大統領の時期を通じて、シンコ・デ・マヨの由来が簡潔に紹介され、その意義づけがなされてきた。年によって細部は異なるが、共通する主旨をまとめると次のようになる[4]。
5月5日は、メキシコ軍が、数のうえでも軍事力でも勝るヨーロッパの軍に立ち向かい、勝利したことを記念する日である。形勢不利にもかかわらず自由と独立を守るために戦い、勝利を収めた勇敢な人びとの姿は、メキシコ人やメキシコ系アメリカ人(オバマ時代になってからはラティーノ全体)に誇りを感じさせ、また、自由を愛するすべての者を奮い立たせる。
外交上の配慮からか、ホワイトハウスでのレセプションで「ヨーロッパの軍」がナポレオン3世のフランス軍であったことを明言したのは、今年のオバマ大統領が初めてだった。ヨーロッパの軍を相手に戦い国の自由と独立を守ったという部分だけを見れば、その日が独立記念日だという誤解が生じても不思議ではない。
祝祭の意義付けに関していえば、このレセプションは、アメリカとメキシコの友好関係や協力体制の強化を再確認するとともに、アメリカ社会に対するメキシコ系アメリカ人(ラティーノ全体)の経済・政治・文化・軍事面での貢献をラティーノ・コミュニティの内外に発信する場ともなっている。
しかし、メキシコ軍の勝利を記念する「シンコ・デ・マヨ」がなぜアメリカを中心に祝われるのか。先述のスピーチでは、ブッシュ、オバマの両者がエイブラハム・リンカーンとベニート・フアレス(1862年当時のアメリカとメキシコの大統領)の関係に触れたことがある。またオバマは、サラゴサ将軍の出身が現在のテキサス州にあるということや、フランス侵略軍が完全に撤退したのはプエブラ戦から数年先のことであり、メキシコ軍による反撃にアメリカも協力したことに言及している。なぜアメリカで祝うのかという疑問を大統領自身も抱き、理由を求めたのだろうが、ここに挙げられた点だけではまだ釈然としない。
この謎を解き明かした本が、実は2012年に刊行されている。デイヴィッド・E・ヘイズ=バウティスタ著、『シンコ・デ・マヨ ―アメリカの伝統』である。ゴールドラッシュの時代にカリフォルニアで発行されたスペイン語新聞の記事を調査していた彼は、シンコ・デ・マヨの起源が、プエブラの戦いの翌年カリフォルニアで行われたお祝いにあることを見出した。祝祭誕生までの経緯は以下の通りである[5]。
カリフォルニアは米墨戦争(1846~1848年)に敗北したメキシコからアメリカに割譲された広大な土地の一部であり、そこには多くのメキシコ人が住んでいた。また、1848年にカリフォルニアで金鉱が発見されるとメキシコ及びラテンアメリカの国々から多くの人が押し寄せ、スペイン語話者の数はさらに増えた。
時代は下って1860年、奴隷制に反対するリンカーンが大統領に当選すると奴隷制維持を望む南部7州が合衆国から離脱し、翌61年に南北戦争が勃発。アメリカに先立ちメキシコでも、自由主義派が起草し公布した1857年憲法をめぐって自由派と保守派の内戦が起こっていた(1857~1860年)。自由派のフアレス大統領は60年末に勝利を収め、その直後リンカーンに使節を送った。二人の指導者の間では、民主主義的な政府を維持し反動勢力に対抗するという共通の意志が確認された。
さて、カリフォルニアのメキシコ人たち、現代でいうところの「ラティーノ」の多くは、白人優位の身分制社会を嫌い、北軍の勝利を望んでいた。しかし戦争の初期は北軍の劣勢が続き、自分たちの住む土地も奴隷州になるのではないかとの不安が募った。そこに届いたのが、ナポレオン三世の侵略軍にメキシコ軍が勝ったことを知らせる新聞記事である。朗報を受けた「ラティーノ」たちは奮起し、アメリカではリンカーンを、メキシコではフアレスを支援すべく、組織的な資金集めや選挙キャンペーンを通じて自由な国づくりのために尽力した。プエブラ戦勝記念のお祭りを始めたのは、彼らだった。
また、リンカーンは、プエブラ戦勝の知らせを受けると、南部連合に連帯を示すナポレオン3世の軍を食い止めたフアレス政府に、謝意を伝えた。
このような背景をふまえると、シンコ・デ・マヨがアメリカで祝われる理由が明らかになるだけでなく、この日にホワイトハウスにおいてアメリカ社会に対するラティーノの貢献が称えられることにも、歴史的な正当性があるように思われる。
ここまでアメリカのシンコ・デ・マヨに注目してきたが、最後にラファ・ララ監督の『5月5日の戦い(Cinco de Mayo: La Batalla)』(2013年)を簡単に紹介しておきたい。登場人物に「ラティーノ」は一人もいないが、あのプエブラの戦いを扱った映画である。
この作品の中心はイグナシオ・サラゴサ将軍を主人公とするストーリーだが、祖国を守った英雄の功績を称えるだけのシンプルな愛国映画ではない。むしろそこには、シンコ・デ・マヨの由来として語り継がれる単純化された物語からは削ぎ落とされてしまう、複雑な細部が描かれている。たとえば、メキシコ国内の対立は内戦後も続き、フランス軍の侵略にはメキシコ保守派の関与があり、戦いの際にフランス側についた勢力もいたこと。フランス軍の最前線に立ったのは植民地アルジェリアから連れて来られた兵だったこと。他方のメキシコ軍でも、強制的に徴兵された多くの人びとが前線に配置されたこと。
また、この作品にはフアンという名の一人のメキシコ兵に焦点を当てたストーリーも展開されており、観客は一兵士の視点からも「5月5日」を見ることになる。彼の体験は、戦闘の指揮官や、戦地から遠く離れたところにいる権力者のそれとはまったく異なるものだ。長時間に及ぶ戦闘シーンでは、攻防の大勢や軍指令部の様子に加えて、相手を殺さなければ自分が死ぬという極限状態でフアンが初めて人を殺し、彼の意識が狂気と紙一重のところまで歪む様も描かれている。戦闘シーンの映像がしばしば揺れることや、両軍の兵士たちの肉体が傷つけられる姿が容赦なく映し出されることも際立った特徴だが、こうした描き方は、サラゴサ将軍を作品の唯一の中心とするのではなく、フアンという一兵士が第二の主人公として導入されたことと同様の効果を持っている。つまり、この映画には、勇ましく輝かしいものとして語られるプエブラの戦いを一兵士の視点や感覚も交えて語り直し、いわば記念碑に刻まれたような歴史上の出来事を、ひとりの人間が身をもって生きた体験へと引き戻すという側面があるのだ。
映画『5月5日の戦い』は、日本でもこの秋に一般公開されるという[6]。初夏の陽気の下でラテン音楽やメキシコ料理を楽しんだ方もそうでない方も、1862年のプエブラを疑似体験してみてはどうだろうか。