トップ>研究>長沙走馬楼呉簡と多摩丘陵——時間と空間を越えて
阿部 幸信 【略歴】
阿部 幸信/中央大学文学部教授
専門分野 中国古代史
開福寺付近から湘江対岸を望む。中央左に浮かんでいるのは中洲。
3月12日、久しぶりに長沙を訪れた。長沙市は中国南部、湖南省の省都。市内を南北に貫いて、湘江がゆったりと流れる。「湖南の扇」で芥川龍之介が玉蘭と邂逅したモオタア・ボオトはもう走っていないが、大きな貨物船や小さな渡し船がいまもひっきりなしに行き交う。
湘江は長沙市の北で、中国第二の湖・洞庭湖に注ぐ。洞庭湖の南だから「湖南」省というわけだ。少し南へ遡ると、毛沢東の故郷・湘潭県を経て、道教の聖地・衡山に至る。衡山の一帯すなわち湘南でかつて隆盛を極めた禅宗は、鎌倉時代、その地名ごと日本に移入された。
長沙は、山岳地帯を結ぶ水運の拠点として、さらには長江中流域と南シナ海とを結ぶ交通の要衝として、二千年以上の長きにわたり栄えてきた。むろん、湘江こそが、その繁栄を支えた要である。近年でも、湘江流域の鉱工業の成長に伴って、長沙はさらに発展を続けている。
長沙に到着した私がまず目指したのは、長沙随一の繁華街・五一広場にある平和堂。2012年9月15日の反日暴動で激しい略奪に遭い、その様子は日本でも大きく報じられた。いまは入口ホールに滋賀県と湖南省の友好協定締結30周年を祝うブースが設けられていて、事件の影はまったく感じられない。実はこの地、18年前にも、学界を震撼させるニュースの舞台となったことがある。
平和堂ビル
1996年、平和堂ビルの建築現場から出た廃土に、文字の書かれた木片が混ざっているのが見つかった。調査の結果、周辺に昔の役所の古井戸が散在していることや、そのうちのひとつに三国時代(220~280)の木簡・竹簡が十数万点も埋まっていることが明らかになった。この資料群は、一帯の地名から、「走馬楼呉簡」と名づけられることになる。「呉簡」とは「呉の木簡・竹簡」の意。三国のひとつで、現在の南京に都をおいた呉の国の文書であることを示す。
湘江やその支流の流域では、近年、開発の進行とともに、このような古い資料が続々と見つかっている。とくに長沙は、市街の位置が二千年以上変わらなかったこともあって、徒歩10分圏内の狭い範囲から走馬楼西漢簡(2003)、東牌楼漢簡(2004)が相次いで出土し、2010年にも平和堂のすぐ北の地下鉄工事現場で、五一広場東漢簡が発見されている。いずれもはかりしれない学術的価値をもつが、中でも走馬楼呉簡は、点数がずば抜けて多いばかりでなく、それが三国時代の資料であることから、ひときわ大きな注目を集めている。
三国時代は、『三国演義』からくる人気に比して、謎の多い時代である。歴史書『三国志』の記載がうすいためだ。そもそも、すでに紙が普及していたとされていた三国時代に、これほど多くの木簡・竹簡が用いられていたことじたい、史書からは想像もつかないことであった。研究者たちが走馬楼呉簡に大きな期待を抱くのも、自然な流れである。
ところが、研究が進むにつれて、それほど事態が簡単ではないことがわかってきた。
走馬楼呉簡に描かれた鹿。赤外線画像をモニタ上に拡大したもの
確かに、十万点という点数は多い。しかし、整理してみると、その圧倒的大部分は、役所の出納帳や戸籍の断片であった。もちろん、当時の文書行政の実態を知るには、そうした材料が出土することには非常に大きな意味がある。とはいえ、人名や数字・日付だけが異なる同じような文書ばかりが大量にあっても、類例が増えるだけで、わかることには限度がある。しかも、まとまった帳簿として出てきたのならまだしも、ばらばらの切れ端なのだ。書物なら、内容から前後の判断がつくが、このような帳簿を原型どおりに復元することは困難を極める。そのため、学界では、「走馬楼呉簡は数ばかり多くて扱いづらい」というイメージが、すっかり定着してしまった。走馬楼呉簡を扱った論文も、他の出土文字資料に比べると、かなり少ないのが現状である。
それでも、あきらめるのはまだ早い。何しろ帳簿とは、情報が淘汰され整理されてしまう以前の、生々しいメモ書きにほかならない。その可能性を何とかして引き出すことができれば、文献にはみえない当時の長沙の生活の実態を、立体的に捉えることができるはずである。歩みは遅いけれども、懸命な努力が続けられている。
3月15日からの3日間は、走馬楼呉簡が収められている長沙簡牘博物館の作業室にこもり、時間の許すかぎり、ひたすら観察・分析を行った。その様子は、長沙簡牘博物館のホームページでも紹介された(http://www.chinajiandu.cn/Company-News/2117.html)。
吏民田家莂
今回の私の調査対象は、走馬楼呉簡のうちでも「吏民田家莂」と呼ばれる、大型の木簡である。そこには、一戸ごとの耕作面積と作柄に応じた米・布・銭の課税額と納入日が、その計算過程とあわせて、克明に記録されている。
吏民田家莂によると、当時の人々の居住地・耕作地は、「丘」という単位によってグループ分けされていた。戦国時代の出土資料や吏民田家莂の分析などから、この「丘」というのはいわゆる丘陵ではなく、丘陵のあいだの谷の部分に開けた空間の呼称であることがわかってきている。こうした場所に、焼畑によって農地が開かれ、一定のサイクルで休閑と火入れが繰り返されていたらしい。吏民田家莂は単年度ごとに作られるので、同一人物のデータを年ごとに比較すれば、耕作面積が変動していること、つまり農地が移動していることを知ることができる。同時に、「火種田」という文言が一部の吏民田家莂にみえることから、焼畑の技術が用いられていたこともほぼ確実視されている。
走馬楼呉簡には、鹿皮に関する記録も多く出現する。中でも、薄い林に棲むノロジカの皮が注目される。焼畑による森林開発が繰り返された結果、農地と周辺の森林とのあいだに灌木の生えた草原地帯が広がるようになり、そうした環境を好むノロジカが増えたのだろう。
陽光にきらめく湘江をはさんで、見渡すかぎり続く丘陵地。森をいただく丘の谷間には草原が広がり、そのところどころに田んぼが続いているのが見える。草原に小さなシカがあらわれ、灌木の芽を食みだした。丘のふもとの大きなため池を横切る魚影は、コイだろうか。その脇を、麻を担ったウシが行く。——走馬楼呉簡の帳簿を繰っていくことで、『三国志』の伝えない農村風景が、パノラマのように広がっていく。
長沙市郊外のある「沖」の様子
ちょうど長沙で吏民田家莂が作られていたころ、遠く朝鮮半島では、卑弥呼の使者が魏の国の役所を訪れていた。日本列島に稲作文化が広がりつつあった時代である。
のち、東日本の丘陵地帯では、丘陵地の浸食谷を利用して、焼畑農業が営まれるようになる。その様子は、3世紀の長沙の風景と重なりあう。多摩丘陵一帯では、こうした土地を「谷戸」「谷津」と呼びならわしてきた。中央大学多摩キャンパスの正門から野猿街道に至る道沿いに広がる谷津入集落は、地形・地名ともに、谷戸の名残を伝えている。長沙一帯でも、「丘」に連なるとみられる「沖」という地名をしばしば目にするが、そこに広がる集落や農地の様子は、なるほど谷戸に近いものがある。
走馬楼呉簡を調べれば調べるほど、多摩の歴史を知れば知るほど、大陸と日本列島を結ぶ大きな基層文化の連なりが、生々しく感じられてくる。1800年前の帳簿を手に取りながら、多摩に生まれ育ち多摩で教鞭を執る私が走馬楼呉簡と引き合わされたことも、何かの運命であったのかもしれないという思いが、ふと胸中をよぎった。