トップ>研究>3・11巨大複合災害から3年—パラダイム・シフトは起こっているのか—
滝田 賢治 【略歴】
滝田 賢治/中央大学法学部教授
専門分野 政治学、国際政治学
2011年3月11日に発生した巨大地震、巨大津波、福島第1原発事故さらには日本内外での広範な風評被害という四重の複合災害から3年が経とうとしている。緊急救援・救助から始まった被災地域への政府・自治体・NGOなどによる対応は、3年たった現在、本格的な復興に向かいつつあるが、未解決の問題が山積している。高台への移転問題、産業の空洞化、除染問題、防波堤・防潮堤の再建築問題などであるが、この複合災害が惹起した最も深刻な課題は、原発問題であることは疑いない。
この災害時、首相であった菅氏は原発事故に対して、「1000万人から2000万人の住民を200〜300キロ単位で退避させることを検討した」ことを明らかにし(『日本経済新聞』2011年9月21日朝刊)、「そうなれば国家として機能しなくなることも覚悟した」と述べている。大混乱の中で情報が錯綜していた上に、政府・官僚と東京電力が情報を統制したために放射性物質による汚染への不安と恐怖の中で、原発周辺の住民の退避は大幅に遅れたのであった。原発避難地区からの退避者数は、復興庁の資料によると2013年4月現在、15万人強である。それは、これらの住民が住んでいた広大な地域が放射能汚染により居住不可能となったことを意味する。それはまた、自然豊かで、文化と伝統を受け継いできた日本の国土が失われたことを意味する。徐染するにしても汚染地域すべてを徐染できるわけではなく、徐染しても完全には徐染できず、徐染土の一時的保管場所にも地域の反対があり宙ぶらりんの状態が続いている。
原発はそもそもが「トイレのないマンション」と揶揄されるように、使用済み核燃料を最終的に処理できない性質のものである。使用済み核燃料を再処理するためにつくられた六ヶ所再処理工場(青森県)はトラブル続きで処理が進まず、発電しながら消費した以上の核燃料を生み出せる(=原発で使った核燃料を再利用できる)と鳴り物入りで建設された高速増殖炉「もんじゅ」(福井県)も事故続きで、計画が実質的には頓挫しているのが現状である。これら2つの施設とも巨額の資金(=税金)が投入されたにもかかわらず、当初、謳われた目的は実現していないどころか、放射能の放出も問題となっている。以前の時代から見れば、遥かに先進的であった巨大技術——例えば蒸気機関車、(内燃機関による)自動車、航空機・ジャンボ機、新幹線、人工衛星など——も、たとえ初期の段階で事故発生率が高くても、失敗を繰り返すうちに精度が上がって事故率は逓減していく、という歴史的事実を引用し、原発の経済性のみを強調する政治家や研究者が見られる。彼らの多くはいわゆる「原子力村」の住人である。しかし原発は、失敗の許されないレヴェルと質が、これらの巨大技術とは根本的に異なるものであることは明らかであり、この本質的な違いに目をつむる者は、原発事故が発生した時には「想定外」という言葉で自らもだますことになるのだろう。
「失われた20年」を取り戻すためにアベノミクスを短期間で推進し、そのためには6年後の東京オリンピックも利用しようとする政府、経済界や「原子力村」は、4月からの原発再稼働に向け強引に動き始めた。政府自体が、(東)南海トラフ巨大地震とそれに伴う巨大津波が発生する可能性について警告を発し、これに対する対策を強力に進めようとしている時に、原発再稼働を強力に推進する体制を整えるとともに、大都市では容積率を大幅に緩め(埋立地の)臨海部も含めタワーマンションの建設を認めるという矛盾に満ちた対応をしている。
地震、津波、台風、水害など自然災害、常なる日本にとっての最大の国家安全保障は、自然災害に強靭な国家・国土を造ることであり、日常生活、生産活動、医療、教育、全ての面で絶えず、自然災害とこれに起因する第2次災害——その最大のものは原発事故であるが——への備えを行っておくことであることは明らかである。強靭な国家・国土を造る上で最大のネックとなっているのが大都市(周辺)への過度な人口集中・産業集中である。東京圏、大阪圏、名古屋圏、博多・北九州圏などに人口が集中し、その結果、タワービル・タワーマンションが建設され、鉄道や地下鉄が複雑に張り巡らされることになる。こうした人口稠密な大都市圏の生活・生産を支えるために膨大な電気需要が生まれ、遠隔の過疎地に原発が立地することになる。
こうして見てくると、原発依存の背景には経済界・電気事業連合会(電事連)の利益追求志向があるばかりでなく、大都市圏への人口集中や産業集中があることが分かる。原発事故が発生した場合の膨大な被害と復旧・回復のための長期にわたる巨大なコスト——そのほとんどは実質的には国民の税金——の為ばかりでなく、原発の持つ人智では制御不可能な根本的性格のために、脱原発へ向けた意識の改革と取り組みを強力に進めていくことこそが国家安全保障を実質化する国家・国土強靭化の大前提となっている。
原発依存から脱却するためにも、自然災害リスクを軽減するためにも、人口・産業分散が不可欠である。しかし現実にはこれらの分散が進まないどころか、ますます集中が加速していることが経済成長至上主義の原発維持・推進派を勢いづけているのである。地方分権を進めて人口・産業分散を加速することが、自然災害リスクを軽減するとともに原発依存から脱却する唯一の道であろう。東京都の人口は1,300万人(年間予算12兆円、GDP91兆円で13位のオーストラリアと14位メキシコ・15位韓国の間)で、周辺の千葉・埼玉・神奈川3県の人口を合わせると3,000万人、更にその周辺の茨城・栃木・群馬・山梨4県の南部地域まで含めると4,000万人近い人口が、関東平野に集中しているのである。アルゼンチンの人口に匹敵する4,000万人が関東平野に集中して居住し、生産活動に従事している。4,000万人の生活と生産活動の支えるために、水は利根川水系と多摩川水系に依存し、ガスはプロパンガス以外は沿海部に集中立地するガス工場によって生産され、天然ガスを主成分とする都市ガスを供給する総延長6万キロに及ぶガス導管が関東平野に張り巡らされている。電気は3・11前には遠隔の福島原発と柏崎原発に多くを依存していた。ヒト・モノ・カネ・情報・サーヴィスが過剰なまでに東京首都圏とその周辺に集中しているのである。程度の差こそあれ、大阪圏、名古屋圏、博多・北九州圏でも同じような状況である。
これら大都市圏が巨大地震、巨大津波などの自然災害に襲われ、これらによって「想定外」の原発事故が起こった場合、国民の生命と財産、さらには豊かな自然を守ることを第1義とする国家安全保障は脆くも崩れ去るのである。国家安全保障は外敵によるよりも、国内要因によって崩れ去ってきたことは歴史が如実に証明している。国内的矛盾を解決できない場合、外敵の脅威を強調し、国民の目を外部に向ける傾向(=対外的危機の醸成)が強いことも歴史が証明している。地方分権と人口・生産拠点の分散は、簡単な事業ではない。第1に明治以来150年間の制度・機構そして何よりも政治家を含めた国民全体の発想が転換しなければ実現できず、それには強力な政治指導が不可欠である。第2に強権を発動して短期間に進めると、不動産価格が暴落して経済的混乱をはじめ社会的大混乱が生じることは明らかであり、半世紀をかけた長期的ヴィジョン・工程表を策定して国家的プロジェクトとして推進することが肝要である。この間にも巨大自然災害が発生する可能性は高く、これに備える短中期的対策も最優先すべきであろう。
地方分権と人口分散が進めば、エネルギーの地産地消が可能となり、自然再生エネルギーへのシフトもより容易になる。地方各地の自然特性を生かし、メガソーラーによる太陽光・太陽熱発電、風力発電(海洋型風力発電も含む)、地熱発電、波力発電、揚水・水力発電、小規模水力発電などの実用化が可能となる。人口稠密な大都市圏では、これらの発電は難しく、経済効率・利益優先主義の原発推進派の主張が通りやすくなる。確かに大都市は、刺激に満ち、相対的にみれば雇用の機会も多く、商業・文化施設も充実して「楽しい都会生活」をエンジョイできるため、人口集中しやすいことは理解できるが、日本が自然災害常なる「災害列島」であることを認識すれば、国家安全保障の要諦は人口分散と国土強靭化にあることは理解できるはずである。しかし現実には、多くの政治家・研究者・ジャーナリストは目先の経済回復・経済成長に囚われ発想の転換ができないのである。かつてT.クーンが指摘した天動説から地動説へのパラダイム・シフトが起こらなければ、近い将来、日本は再び巨大災害に襲われ長期にわたる社会・経済的停滞にみまわれるであろう。「人類が歴史から学びえた唯一のことは、人類は歴史から何も学びえないことである」というヘーゲルの皮肉な言葉を、我々日本人は笑い返すことができるのだろうか。