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トップ>研究>なぜ世界は存在しているのか?

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中村 昇

中村 昇 【略歴

教養講座

なぜ世界は存在しているのか?

中村 昇/中央大学文学部教授
専門分野 西洋現代哲学、言語論、時間論

世界の存在と哲学

 わたしの専門であるウィトゲンシュタイン(1889-1951)という哲学者は、若いころ書いた『論理哲学論考』のなかで、つぎのように言っていた。

 「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。」(6・44)

 この世界が、どのようなあり方をしているかは、さほど神秘ではない。「世界がある」ということ、つまりは、その存在そのものが、神秘だというのだ。

 たしかに、量子力学と相対性理論を統一するかもしれない超弦理論のいうように、この世界が10次元だということになれば、それはそれで、じゅうぶん神秘的である。また、多世界解釈がもし正しいということにでもなれば、目くるめくような宇宙の構造(パラレル・ワールド)が明らかになるだろう。そんな最近の話ではなくても、ニュートンの万有引力だって、改めてじっくり考えてみれば、とてつもなく神秘的だ。

 しかし、そのようなもろもろの事柄は、しょせん世界内部のありようにすぎない。それがどれほど驚くべきあり方をしていても、「いかにあるか」にすぎないのだ。なるほど、この上なく不思議なことではあるだろうが、問答無用の神秘というわけではない。この世界の法則は、われわれによって解明され理解される(可能性がある)からだ。

 この世界がなぜあるのか。そもそも、この宇宙そのものがなぜ存在しているのか。この世界の存在に、いったい何の意味があるのか。このような底なし(世界という基底に支えられていないという意味で)の問には、あらゆる角度から、どうもがいてみても答はでないだろう。ここにこうして、われわれがいることの意味は、誰にもわからない。これこそ、本物の「神秘」だとウィトゲンシュタインは言っているのである。そして、このような問題にとりつかれると、哲学という分野に入ってしまう。

哲学の方法

 しかし、このような問に、どのように挑めばいいのだろうか。この根源的な問に挑戦するための足場やたしかな方法は、はたして存在しているのだろうか。「どうもがいてみても答はでない」と、自分でもいま書いたばかりではないか。

 たしかに、哲学という領域に足を踏みいれるきっかけは、このような問だったかもしれない。ところが、この問にまっすぐ取りくむ道は、どこにも見いだせない。だから、いったん哲学という学問をはじめると、とたんにこの問は雲散霧消してしまう。

 ようするに、実際の哲学研究においては、まず、過去の高名な哲学者の学説を知識として蓄積し、さらにそれをもとに、事実にもとづいた「研究」がなされなければならない。このことに多くの時間が費やされ、最初の問に立ちもどることは容易ではない。あるいは、立ちもどることなく一生が終わる。

 これをわたしは、「出発点忘却の誤謬」とでも呼びたい。そこから出発したはずなのに(最初の問がなければ、こうした研究はしない)、その最初のきっかけとなった地点を忘れて、他のどうでもいいことにうつつを抜かしているという誤謬だ。この誤謬から、われわれは、いやわたしは、どうやって脱出できるのだろうか。

 それに、この問に立ちもどることができたとしても、どのようにして答にたどりつくことができるだろう。どう考えても手がかりがない。哲学を志すものにとっては、存在そのものの神秘こそが、もっとも知りたいことなのに、その核心に迫る方法が、かいもく見当もつかないのだ。だからこそ、「出発点忘却の誤謬」にも陥る。なにかヒントのようなものだけでも見つからないだろうか。

時間というもの

 われわれは、なぜだか存在してしまっている、とても不思議なことに。だが、成長後の<いま・ここ>の地点では、始源のこの謎にたどりつくことはできない。たしかに、自分の親や親戚に、みずからの誕生の事実経過を尋ねることはできるだろう。そのような物語を、多かれ少なかれわれわれは聞いてそだつ。しかしそれは、たんに生物として生まれてきたときの状態であり、<いま・ここ>にいる、この<わたし>とは、あまり関係がない(ように思われる)。しかも、そのような親や親戚にしたところで、われわれと同じように、みずからの出自については、他人の証言によってしかたしかめる術をもたない。誰も何もわかってはいないのだ。ようするに、どこにも、どこまでいっても答の手がかりは見つからない。

 このような疑問は、現時点で過去について問うことによってなりたつ。「なぜ、無ではなく存在なのか」という問における「なぜ」は、かならず過去について問う疑問詞だ。現在からさかのぼって過去のある時点に「なぜ」の答を想定している。過去のある時点に「原因」があり、その「結果」として現在の状態が出来しているというわけだ。因果系列を前提しなければ、この問はなりたたない。

 この前提は、時間は流れていて、その流れのなかで、因果律が成りたっているというものだ。つまり、時間は流れているというもう一つの前提もくわわっているといえるだろう。しかし、これはそれほど自明な前提だろうか。時間の流れにおけるこの因果性を支えているのは、われわれの記憶力である。たしかに、この記憶という能力をもとに、われわれは歴史を記述し、日々の生活を営む。

 だが、記憶は、おおくの錯誤をふくみ、基本的に自分自身のものであり、他人と同じ記憶を完全に共有することなどできない。そう考えれば、記憶というものは、ひじょうに曖昧でごく私的なものだといわざるをえないだろう。もちろん、それぞれが自らの記憶を提示し、そこで共通の過去を構築することはできる(法廷などでよくおこなわれているように)。しかし、それはあくまでも仮説にすぎない。われわれは、誰一人として過去に戻ることはできないのだから。このように考えると、「なぜ」という問が、たいへん曖昧なものを基盤にした問いかけであることがわかるだろう。

 このようなあり方は、「事後構成的構造」と呼ぶことができるだろう。現時点の結果からさかのぼり、原因を問うからだ。つねに、われわれは結果にいて、原因を構成しなければならない。いつも跡づけをしているだけなのである。時間が流れるという前提のもとで、「なぜ」という問いかけをし、その答を探るということは、こうした事後的な構成作業をしているということなのだ。このような作業は、とても恣意的なものだといえるだろう。現時点にいつづけるわれわれは、どうやっても、この作業が正しいということを確認する術はないのだから。

言語というもの

 われわれが、このような面倒な問に逢着してしまうのは、おそらく言語をもってしまったからだろう。言葉をもたなければ、「なぜ存在しているのか」などという問は、あらわれることはない。われわれは、無言でたんたんと(たぶん幸せに)日々暮らしていくだけにすぎないだろう。

 われわれのこのようなあり方を「不条理」と呼んだ文学者がいた。しかし、不条理だと認識できるのも、われわれに条理の感覚、つまりは論理がそなわっているからだろう。そして、論理は、言語によって具体的なものとして現れる。つまり、われわれは、「言語=論理」をもっているから、この世界を「不条理」と呼び、前述したような問につまづくというわけだ。

 ここから、いくつかの可能性が考えられるだろう。「言語=論理」をわれわれがもってしまったから、この世界の神秘に気づいた。つまり、この世界の神秘というのは、あくまでも「言語=論理」内の出来事にすぎない。「本当」は、神秘などどこにもない。あるいは、「言語=論理」をこえたところに「真」の神秘がある。それをわれわれは、絶対に認識できない。

 あるいは、われわれが「言語=論理」をもってしまっているということこそ神秘のさいたるものだ。完全に無秩序でもいいはずの世界が、「言語=論理」によって語る(分析する)ことができるということこそ神秘ではないのか。この世界の神秘は、「言語=論理=世界」という構造そのものである。

 さらに、「言語=論理」以前、あるいは、「言語=論理」以後の何らかの方法によって、「言語=論理」的世界の「なぜ」という問に対する答に相当するようなものを手にすることができる可能性も考えられないこともないだろう。しかし、この場合は、その答のようなものを、たとえ手にしたとしても、言語による表現ができないのだから、それがどのようなものなのか、誰にもわからないということでもある。そもそも「わかる」という事態が、その方法にはそぐわないかもしれない。

語りえないもの

 もちろん、これまでだって、何人かの哲学者は、この問に真っ向から対峙した。しかし、それは、おおくの人が共有できる言葉によっては、語られることはなかった。誰もが「わかる」ような代物ではない。

 たとえば、後期ハイデガーは、秘教的ジャーゴンをつかって言語による袋小路をつくりだしたし、レヴィナスは、『存在するとはべつの仕方で、あるいは、存在の彼方へ』において、つねに前言をとりけし(dédire)、存在でもなく無でもない「存在の彼方へ」という未踏の地を薄くかいま見せようとした。しかしいずれにしろ、これらは、言語の限界を(あくまでも内側から)破砕しようとする試みであり、万人が理解できるようなものではまったくない。

 ウィトゲンシュタインは、ハイデガーの営為を、ひじょうに貴重なドキュメントではあるが、すべて無意味だといい切る。冒頭に引用した『論理哲学論考』の掉尾をかざる有名な節で、ウィトゲンシュタインは、つぎのようにいう。

 「語りえないものについては、沈黙しなければならない」(7)

 ようするに、世界そのものや存在について、言葉によって語ったとしても、何も意味しないのだから、沈黙しなければならない、というわけだ。たしかに、このような態度は、この問に対するもっとも真摯な姿勢かもしれない。あるいは、これ以外にわれわれがとるべき道はないのかもしれない。どう語ったところで、答にたどりつくことはなく、どんな論議をしても、まったく無意味なのだから。

 だが、そうはいっても、眼の前の「世界がある」という<この>神秘をただ眺めているわけにはいかない。どうしても、その中心を射ぬきたいのだ。

 これが、わたしの研究テーマである。

中村 昇(なかむら・のぼる)/中央大学文学部教授
専門分野 西洋現代哲学、言語論、時間論
1958年長崎県生まれ。1994年中央大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。中央大学文学部専任講師・助教授をへて2005年より現職。現在の研究課題は、ウィトゲンシュタインの言語論、ホワイトヘッド、ベルクソン、西田幾多郎の時間論など。
主な著作に『いかにしてわたしは哲学にのめりこんだのか』(春秋社、2003年)、『小林秀雄とウィトゲンシュタイン』(春風社、2007年)、『ホワイトヘッドの哲学』(講談社、2007年)、『ウィトゲンシュタイン ネクタイをしない哲学者』(白水社、2009年)、『ベルクソン=時間と空間の哲学』(講談社、2014年)などがある。