石山 文彦 【略歴】
石山 文彦/中央大学法学部教授
専門分野 法哲学、特に現代正義論(なかでも多文化主義の理論)
複数の文化が共存することは望ましいか。この問いに対して正面から否定的に答えるには勇気が必要だろう。日本の(特に)公文書等で使われることの多い「多文化共生」の理念は、この問いへの肯定的解答を前提にしており、この解答そのものに対する異論は存在しないかのようである。しかし、移民を多数受け入れてきた諸国に多く見られる「多文化主義(multiculturalism)」をめぐっては、激しい対立や論争がある。複数の文化の共存といっても、それが望ましいとだけ言ってすまされるものではなく、現場の具体的実践のレベルではもちろんのこと、理論的にも多くの課題がある。以下ではそうした理論的課題のいくつかを、多文化主義の理論による解答例とともに紹介する。
多文化主義に対する素朴な疑問のひとつに、「多文化主義に基づく制度や政策はマイノリティ文化を特別扱いするものであり不当ではないか」というものがある。たとえば、いわゆるアイヌ文化振興法によればアイヌ文化の振興を図るための施策が推進されることになっている(同法第1条)が、これはアイヌ文化に対する不当な優遇ではないか、というわけである。
この疑問に対する多文化主義の立場からの応答は、次のようになる。
ここで(2)の事実認識が正しいとすれば、上記の疑問は(1)が誤りであることを前提にしていることになる。上記の疑問が何らかの訴求力を持つとすれば、実は(1)は自明ではなく、その根拠が問われなければならない。
それでは、なぜ複数の文化の共存が望ましいのか。多文化主義の代表的な理論の1つによれば、ある人が自らの文化的ルーツのために差別される社会、あるいは差別を避けるためにルーツを隠さなければならない社会は、その人に対して生の基礎的ニーズを保障できていない。社会が公の制度や政策のなかでマイノリティ文化の存在を明確にせず、マイノリティ文化を同化吸収圧力に晒したままにしているとすれば、その社会はその文化に属する人々をいわば二級市民扱いしていることになる。マイノリティ文化の存続が求められるのは、社会の対等なメンバーとして彼らにも生の基礎的ニーズを保障するためなのである。
多文化主義は複数の文化の共存が望ましいとしているが、民族によっては自らの伝統的文化と称して、女性の活動の自由を大幅に制限したり宗教的少数派を迫害したりするなど、メンバーの一部を抑圧しているものもある。そうした文化も共存することが望ましいのか。多文化主義はさまざまな文化が等しい存在価値を有するとの前提に立っているのか。
この疑問に対する多文化主義の応答は多様であり得る。文化はみな等しい存在価値を有すると考えれば、あらゆる文化の共存が望ましいとの結論が容易に導かれる。しかし、文化がみな等しい価値を有するわけではないと考えても、抑圧的文化以外の文化は共存することが望ましいとは言えるし、さらに、文化は時間の経過とともに変容し得るのだから、抑圧的文化でさえそれを全体として否定すべきではなく、むしろ基本的にはそれを尊重しつつ、その抑圧的部分が変容するのを期待すべきだと主張することもできる。いすれにせよ、複数の文化の共存が望ましいとの主張が人々にあっさり受け入れられているとすれば、そこでは無意識のうちに、抑圧的文化の存在が視野の外におかれている可能性がある。
多文化主義に基づく制度や政策のなかでは複数の文化の存在が示されることになるが、人々が互いに文化的に異なっていることが強調される結果、人々のつながりが弱まることになるのではないか。多文化主義は社会のまとまりを弱め、社会を分裂・分断へと導くのではないか。
多文化主義は、国民国家と究極的には結びつく文化的平準化圧力に対抗する理念と捉えることができる。国民国家のモデルでは、国民はひとつの「国民文化」のもとでまとまるものと考えられ、これを実現するために「国民形成(nation-building)」のプロジェクトが遂行されてきた。社会の多数派はしばしば国民文化と自らの文化を同一視し、マイノリティ文化の存在を無視ないし否定しようとするが、多文化主義は、これに対抗して文化的少数派も同じ国民として対等だと主張する理念なのである。しかしそうなると、それまでの国民文化に代わって、何が人々をまとめることになるのか。文化的に異なる人々をつなぐ役割を果たすものが存在しないとすれば、社会は分裂してしまうのではないか。
この疑問に対する応答も多様である。その1つによれば、たとえば政治的価値のような非文化的存在によって、文化的に異なる人々をつなぐことができるという。個人の自由・平等、諸個人の連帯といった基本的価値を共有することにより、社会のまとまりが維持されるというのである。これに対し、非文化的なものによるつながりでは不十分であり、文化横断的ではあってもあくまで何らかの文化的な結びつきが必要だという主張もある。共存している複数の文化とは別のレベルで存在する、いわば内容の希薄化された文化によってこそ、人々は社会としてまとまるというのである。この主張によれば、アメリカ合衆国やフランスのように表向きは政治的価値の共有によって国民をまとめていると言われることのある社会であっても、言語に典型的に現れているように、共有された文化が全く存在しないとは言い難いのである。
ここまで、多文化主義に対して提起された主要な疑問と多文化主義からのそれらへの解答例を紹介してきた。最後に、上記4の問題ともつながるが、より根本的な問題に触れておきたい。
多文化主義は複数の文化の共存を望ましいとするが、人間にはそれを実現する能力がどこまで備わっているのか。人間は文化的に異質な他者と、いかにして、どこまで共存できるのか、また共存すべきなのか。
個人にとって文化を共有する人は、その考えや振る舞いが一定の範囲に収まっており、そのかぎりで安心な存在である。もちろん、同じ言語で話しているから互いに理解し合えるという考えが根拠を欠くと言われるように、文化を共有すれば互いに理解し合えるなどというのは厳密に言えば幻想にすぎない。しかし、幻想に基づいていたとしても、安心を得られることは変わりがない。これに対し、文化的に異質な他者は、その考えや振る舞いが予想しにくく、そうした人との接触には、不安や緊張、またときには恐怖も伴う。人間は、物質的精神的に余裕のあるときはこうした接触を楽しむことさえできるが、逆に余裕を失えば、接触は摩擦を生み、ときにそれは暴力にまで発展する。その例証として世界のいたるところで発生してきた民族対立の事例を持ち出す必要はないであろう。
多文化主義を擁護する議論は、こうした人間の現実に対して、それをたんなる非合理性として無視ないし軽視するのではなく、しっかりと向き合う必要がある。そうでなければ多文化主義は、現実的基盤の存否を度外視して複数の文化の共存を楽観的に望んでいるにすぎないことになるだろう。人間の有する、自らの弱さに起因する、自他を破壊しかねない可能性にいかに対応すれば、異文化との共存は可能となるのか。人間性の改善によって人が互いにとり危険な存在でなくなることに期待するよりは、だれもがこうした危険性を抱えつつもそれが破壊的な形で発現しないような制度的工夫を施すことのほうが、私には希望の持てる道であるように思われる。