新田 秀樹 【略歴】
新田 秀樹/中央大学法学部教授
専門分野 社会保障法学、社会保障政策論
私が専門としているのは、社会保障法学という法律学の一分野である。すなわち、「社会保障」に関する法制度についての権利義務関係を法学の理論を用いて解明しようとするものであるが、社会保障制度に関しては他の法領域に比べ重要な制度改正の頻度が高いことから、法解釈論だけでなく立法政策論にも目配りした研究を行うよう心がけている。
また、社会保障法といっても、その範囲は医療保険法、年金保険法、介護保険法、労働保険法、社会福祉法、生活保護法など極めて広範多岐にわたり、そのすべてについて「専門家」であることは容易ではない。私は、社会保障法の中でも、医療保険法、さらに言えば、国民健康保険制度(国保制度)に特に関心を持ってきた。
国保は、市町村を保険者とする地域医療保険である。日本の医療保険制度は、日本国民は原則として何らかの公的医療保険制度に強制的に加入するという「国民皆保険」が1961年に達成されて以来、民間サラリーマンとその家族を加入者とする健康保険や公務員とその家族を加入者とする共済組合などの職域保険(被用者保険)と、地域保険である市町村国保の2本立てで長らく運営されてきた。
この市町村国保の加入者(被保険者)は、農業者・自営業者・個人零細企業の被用者・無職者などであるが、法律上は「その市町村の区域内に住所を有する者であって、被用者保険加入者、生活保護受給者など他制度による医療(費)保障を受ける者以外のものを被保険者とする」旨が規定されており、いわば消去法的に市町村国保の被保険者が決まることとされている。このように、市町村国保は他の医療保険制度等に加入できない者の最終的な受け皿となっているため、「国民皆保険の基盤」としてその制度的意義が強調されてきた。
しかし、一方で、消去法的に加入者が決まるが故の、或いは保険者が市町村であるが故の、①加入者の年齢が高い、②無職者が多い、③低所得者が多い、④保険料収納率が低い、⑤医療費や保険料の市町村間格差が存在する、⑥相当数の小規模保険者が存在する、といった制度的・構造的問題を国保は抱え込むこととなったのである。すなわち、現在問題とされている市町村国保の課題の多くは、近年新たに発生したものではなく、皆保険達成当初から存在していた問題が経済社会状況の変化に伴い顕在化・深刻化しつつ、現在に至ったものということができる。
1980年代以降の医療保険制度改革の歴史は、経済が上向かず国や地方の財政状況が悪化する中で高齢化だけは着実に進行するという状況下で、構造的な弱さを抱える市町村国保の破綻を如何に防ぎ国民皆保険を維持するかに腐心した法改正の繰り返しであったと言っても過言ではない。その代表的なものが、老人保健制度の創設(1982年)であり、退職者医療制度の創設(1984年)であり、介護保険制度の創設(1997年)であった。老人保健制度や退職者医療制度は医療保険者間の財政調整の嚆矢であり、また、高齢者医療の隣接領域の制度たる介護保険制度は、年金保険者による介護保険料の特別徴収(天引き)、医療保険者による納付金制度、財政安定化基金の設置等の点で、後期高齢者医療制度の先行型として位置付け得る。
そして、21世紀に入ると、2006年に「国民皆保険を堅持し、医療保険制度を将来にわたり持続可能なものとしていくこと」を目的として、①医療費適正化の総合的な推進、②新たな高齢者医療制度の創設、③保険者の再編・統合の3つを柱とする大規模な医療保険制度改革が行われ、③については都道府県単位を軸とする保険運営を目指すこととされた。具体的には、市町村国保に関しては、都道府県単位での市町村間の財政調整の拡大等が進められ、その方向性は、続く2010年及び2012年の国保法改正においても強化されてきている。
さらに、現在の社会保障制度改革国民会議においては、国保について、保険者機能の一部を市町村から都道府県に移してその役割を強化する一方で、保険料徴収や保健事業などの業務は市町村に残す「分権的広域化」を進めるとの方向が打ち出されようとしているが、これは、民主党政権下で厚生労働省に設けられた高齢者医療制度改革会議で議論された都道府県と市町村による国保の共同運営論を踏襲したものと言えよう。
こうした昨今の国保法の改正動向や医療保険制度改革を巡る議論を見る限り、都道府県単位での国保運営は「当然の」或いは「自明の」こととなっている感があるが、本当にそれでよいのだろうか? 逆に言えば、これまで半世紀以上にわたり続けられてきた市町村による国保運営はもはや「時代遅れ」なのか? 国民皆保険の根幹を切り換えることになるだけに、いま一度原理・原則にまで遡った検証を行う必要があるように思われる。以下では、地域医療保険の運営主体と規模について考えてみたい。
医療保険の運営主体については、大きく分けて、①専ら保険運営を行うことを目的とした法人(保険組合など)に運営を担わせるという考え方(組合主義)と、②国・都道府県・市町村といった公共団体(一般行政主体)が保険者も兼ねるという考え方(公営主義)とがある。組合主義の長所としては、①保険組合の執行・議決等の機関が被保険者代表中心で構成されるので、保険者としての自治・自律の徹底が図れる、②保険組合は保険運営のみに専念するので、保険者としての専門性が向上し、弾力的・効率的な保険運営を行えるといったことが、また、公営主義の長所としては、①保険事業の公共性を強化できる、②関連する他の行政や事業との一体的・総合的な運営を行いやすい、③事業運営に当たり一般財源(租税財源)からの補助を受けやすい、④既存の行政組織を活用できるといったことが挙げられる。
また、地域医療保険の保険者規模については、現在市町村区域単位から都道府県区域単位への規模の拡大の是非が焦点となっているわけであるが、そのメリットとしては、①リスク分散が図りやすく保険財政が安定する、②医療サービスの受益と費用負担との対応関係がより明確になる、③保険者機能の多く(対外交渉力、内部の事務処理能力等)が強化されるといったことが、またそのデメリットとしては、①保険者間の競争の減少により保険運営の効率性が低下する、②保険料の賦課・徴収機能が弱まる可能性がある、③保健事業の実効性が低下する、④保険者自治(特に内部的民主性・自律性)や連帯意識が弱まる、⑤市町村が行っている国保以外の保健・医療・福祉行政と地域医療保険との連携・協働が困難になるといったことが考えられる。
どのような規模のどのような主体が地域医療保険の保険者として適当かという問いに絶対的な正解はもちろん存在しないが、社会扶助(租税を財源とする制度)と異なる社会保険の本質が保険者の自治と加入者の連帯にあるとするならば、あるべき論としては、国保(或いはそれに代わる地域医療保険)を単なる行政施策ではなく、できる限り保険事業として運営しつつ、保険料負担者による民主的決定の貫徹、決定プロセスへの参加を通じての新たな連帯の醸成(これには制度構造が加入者の意識を変えることへの期待も含む)、分権的な複数保険者の競争による給付管理の効率化といった、社会保険ならではのメリットを追求していくことが妥当であろう。そうであるとすれば、保険者は、行政主体よりも保険組合の方が、その数は単一ではなく複数の方が、また、各保険者の規模はそうしたメリットを最大化できる程度の規模である方がよいことになる。そして、その場合には、保険者規模はそれほど大きくならないと思われるので、一気に都道府県レベルまで保険者の規模を拡大することについては慎重な検討が必要ではないか。
では、国民会議で有力となっている国保の共同運営論は、国保が抱える問題を解決する決め手となるのであろうか? 共同運営の場合は、都道府県と市町村の責任分担の匙加減が難しい。都道府県の機能を強めすぎると市町村が都道府県の「下請け」になってしまうであろうし、そうかと言って市町村の裁量を大幅に認めれば、単一の保険集団としての統制が取れなくなって、何のための広域化なのかとその意義が問われることになる。現行制度でも可能な、市町村保険者を維持したまま共同事業を拡大する対応との優劣も問題となろう。特に、決算において赤字が生じた場合に誰がどのように穴埋めをするかとの問題に決着を付けるのは容易ではあるまい。
このように考えてくると、国民皆保険の基盤たる国保の運営を安定化させるために考え得る選択肢のそれぞれに長短があり、地域医療保険の最適保険者が一義的に導き出されるわけではないことがわかる。しかし、よりよい保険者の決定に関しては、理論的に公平かつ効率的であるばかりでなく、現実的故に加入者が制度への信頼感を持つことができる制度を構築することが重要であろう。迂遠なようでも、一時のムードに流されることなく、医療保険関係者間で丁寧に議論を積み重ねることが望まれる。