張 浩徹 【略歴】
張 浩徹/中央大学理工学部教授
専門分野 分子物理化学・無機化学・ソフトマテリアル
言うまでもなく、エネルギー問題は現在を生きる人類が直面している最重要課題の一つです。日本でも東日本大震災以降、太陽光や風力、地熱等の再生可能エネルギーに対する世論の注目と議論が活発化しています。再生可能エネルギーから電気を作りだす。しかし、多くの再生可能エネルギーが時間変動しやすく、また地理的条件にも左右されることから、電力の創出に加え、作り出した電気を化学物質(化学エネルギー)に変換し、貯蔵、運搬することが極めて重要です(再生可能エネルギーから直接化学物質を生産できればよりすばらしいです)。この様なエネルギーを蓄えることができる化学物質として、「水素(H2)」が着目されてきました。燃料としての水素は、燃焼により二酸化炭素等の温室効果ガスを排出せず、水しか出さないクリーンなエネルギーです(下式)。
H2 + 1/2O2 → H2O
水素は天然ガスとしても直接得られるメタン(CH4)と水の水蒸気改質と呼ばれる方法や水の電気分解等からも作ることができます。この様な水素の発生技術に比べ、水素を貯める技術においては大きな課題が残っています。現在では、常温、常圧で気体である水素をその沸点である-253℃まで冷やして液体として大きくて重い耐高圧タンクに貯蔵し運搬します。
水素を社会のエネルギー基盤とする水素社会の実現には、水素を貯める物質(水素キャリアと呼びます)に水素を効率良く貯蓄し、必要な場所に安全に運搬し、必要な時に必要な量だけ効果的に取り出す技術が不可欠です。望まれている水素キャリアは、高い水素含有率を持ち、環境にやさしく取り扱いに優れている必要もあります。このような水素キャリアは、古くから研究されてきました。日本では、北海道大学名誉教授の市川勝教授らにより精力的に有機物からなる有機ハイドライドが開発されてきました。[1] 例えば、図1のメチルシクロヘキサンは三分子の水素を発生しながら、トルエンへと変換されます。すなわちメチルシクロヘキサンが水素キャリアとして働きます。現在ではメチルシクロヘキサンに加えアンモニアやアルコール等も有力な候補となっていますが、これらのキャリアから水素を取り出す反応は吸熱反応であることから高温が必要であると同時に、白金等の高価な触媒が必要です。したがって、これまでの材料及び技術の改良も重要ですが、全く新しい水素キャリアや、安価な触媒開発に加え、水素を取り出す新しい方法も求められています。
図1.メチルシクロヘキサンー/トルエン系有機ハイドライド。白金系触媒と高温を必要とする。
一方、筆者は図2に示す骨格に着目し長年研究を進めてきました。この骨格の特徴は、酸素や硫黄原子(図2のE)を含む芳香族骨格が図に示したように様々な金属イオンと結合することができます。おもしろいのは、金属との結合により、通常では困難な電子の出入りがこの有機骨格で起こるようになる点です。例えば、図2の左に示したカテコラート型と呼ばれる電子をため込んだ状態から電子を一つ取るとセミキノネート型(図2中)に酸化されます。更にこのセミキノネート型を一電子酸化すると最終的にベンゾキノン型(図2右)へと酸化され、全体として二電子を出し入れ可能となります。尚、通常非常に反応性が高いラジカル種であるセミキノネート型も金属イオンに結合すると大気中で扱えるほど安定な化合物を与えることもあります。
図2.二電子の授受が可能なレドックス活性配位子からなる錯体ユニット
筆者らは、この骨格が負電荷を持つ電子(e-)を出し入れできるなら、負電荷とは逆の正電荷を持つプロトン(H+)も一緒に導入できれば、電子とプロトンを出し入れできるのではないかと考えました。うまく電子とプロトンを二つずつ取り出し、結合させると・・・そうです。水素(H2)になります(下式)。
2H+ + 2e- → H2
そこで我々がターゲットにした骨格がオルトフェニレンジアミン(opda)という構造です(図3左)。この骨格は二電子・二プロトンの脱離により、ベンゾキノンジイミン(図3右)と呼ばれる骨格に変換されます。しかし当時このopdaから水素が発生したという報告は勿論、opdaと金属イオンが結合するという明確な報告もされていませんでした。それは、opdaと金属イオンが結合すると大気中で瞬時に反応してしまい単離することが極めて難しいことも原因の一つにあったと思います。我々にとって有用であった情報は、opdaの様な芳香族アミン類に光を照射すると水素ラジカル(H・)が発生するという報告のみでした。opdaとFe(Ⅱ)イオンを混合すると白色の粉末が得られるのですが、この粉末は空気中に出すと瞬時に分解しますが、水素は全く発生しませんでした。
図3.二電子・二プロトンの授受が可能な錯体ユニット
しかしある日、研究員の松本博士が室温でopdaとFe(Ⅱ)の混合物に光を照射すると気体が発生することを見つけました。その気体をガスクロマトグラフィーで分析したところ、発生した気体が水素であることを確認できました。様々な実験と分析を積み重ねた結果、両者の混合により得られる白色粉末の正体は、図4に示したトリスオルトフェニレンジアミン錯体というopdaとFe(Ⅱ)イオンが立派に結合した錯体分子でした。また発生した水素を作り上げるのに必要な電子とプロトンは、opdaに由来していることも実験により突き止めることができました。
図4.光水素発生の様子(左)と水素キャリアである錯体分子(右)
続いて我々は本当にこの分子が水素を貯め、光で放出できる触媒なのかということを証明するために、電子とプロトンを供給できるハイドロキノン(図5左)という試薬を共存させて光照射実験を行いました。すると、ハイドロキノンが共存しない時に比べ水素の発生量が飛躍的に向上したこと、またハイドロキノンだけではこの様な大量の水素は発生しないことを確かめ、確かにこの分子が触媒であることを示す事ができました。
図5.光による触媒的水素発生に対する提案機構
我々が見つけた水素キャリアにはいくつかの特徴があります。第一に室温で作動する点にあります。多くの有機ハイドライドは水素を取り出すのに100℃以上の熱が必要です。我々はこれを光照射という方法で克服したと言えます。光照射により水素を発生できることから、将来的には太陽光の利用等も期待できます。第二の特徴として、鉄という極めて安価な金属で作動する点にあります。従来の触媒には白金やイリジウムといった高価な貴金属が利用されています。コスト面の観点から大きな期待が持てます。最後の特徴として我々が見つけた水素キャリアは、有機骨格と安価な金属の組み合わせにより駆動するハイブリッド型キャリアという点にあります。これは今後詳しく研究する必要がありますが、類似の有機骨格に変更することで性能を向上させたり、また鉄以外の軽金属やより安価な金属への応用をも可能になると言えます。
我々の発見はようやくスタート地点に立ったにすぎません。課題は山のようにあります。しかしこれまでになかった新しい水素キャリアの開発やエネルギー問題への貢献という大きな期待と夢、希望に向け今後も精力的に研究を進めていこうと思っています。幸運にも本研究成果はアメリカ化学会(American Chemical Society)のJournal of the American Chemical Society誌の表紙に採択され、世界に発信されました(図6)。[2][3] 今後、更なる機構解明や性能の向上、また多様な光化学反応への応用が期待されます。最後に本研究は、松本剛博士(現九州大学I2CNER)及び北海道大学の研究グループとの共同研究により得られた成果です。
図6.アメリカ化学会J. Am. Chem. Soc.誌の表紙に採用