トップ>研究>「悲情城市」の証言-台湾228事件と中大卒業生
松野 良一 【略歴】
松野 良一/中央大学総合政策学部教授
専門分野 メディア論、ジャーナリズム論
トニー・レオンが主演した映画「悲情城市」(1989年、侯孝賢監督)は、台湾の戒厳令解除(87年)から間もなくして封切られ、89年のヴェネチア国際映画祭でグランプリを取った作品である。この映画が世界に衝撃を与えた理由は、「日本統治が終わった台湾で何が起きたのか」という歴史的事実を描いていたからである。
日本敗戦の後、大陸からやってきた国民党が新しい台湾を構築するという期待が台湾の人々にはあった。しかし、国民党による統治は日本統治時代よりひどかったとされる。役人たちの腐敗、米や砂糖の大陸への横流し、公的精神の欠如は目に余るものがあり、台湾の人々は「犬が去って豚が来た」 と比喩した。日本人はうるさいが番犬になった。しかし、国民党はただむさぼり食うだけで何の役にも立たないという意味で使われたという。
そうした不満が充満する中、228事件が起きる。1947年2月27日、台北市で闇タバコを販売していた台湾の女性に対し、専売局取締官が暴行を加えた。騒ぎ出した市民に対して取締官が発砲し青年1人が死亡。これに抗議して翌2月28日には、市庁舎への抗議デモが行われた。これに憲兵隊が発砲したため、抗争はたちまち台湾全土に広がった。市民側は多くの地域で一時実権を掌握したが、国民党政府は大陸から援軍を派遣し、武力によりこれを弾圧した。台湾行政院二二八事件研究報告によれば、死亡者は推定1万8千~2万8千人とされている(他に800~10万人と諸説ある)。
写真1:228事件で台湾の人々へ決起が呼びかけられた旧台北放送局。現在は「台北二二八紀念館」
写真2:「台北二二八紀念館」に展示してある中央大学の学生帽
台北駅から南へ10分ほど歩いた場所に、「台北二二八紀念館」という建物がある。これはもともと、ラジオ放送局(戦前は、社団法人台湾放送協会)であった。228事件の際には、市民が占拠し台湾全土に決起を促す放送を行った場所である。2012年9月、私は別の調査で、この紀念館を訪れた。そして、中央大学の学生帽が展示してあることに気づいた。なぜ228事件と中央大学が関係あるのか…。
実は、この228事件で処刑されたり、行方不明になった人たちの中には、日本の大学で学んだ当時の台湾のエリートたちが多かったのである。 中央大学だけでなく、東京大学、早稲田大学、日本大学などに留学し、台湾に戻って弁護士や医師などの職業に就いていた人たちが、日本帝国主義の教育に毒された不穏分子として処分されたのである。
写真3:国民党軍の憲兵に連行されたまま消息不明の林連宗氏
この学生帽は、誰のものなのか。展示には、こう説明があった。
林連宗。台湾彰化市出身。1925年に中央大学法学部で学び、在学中に高等文官試験法科(司法試験)に合格。台湾に戻り、弁護士事務所開業。1945年に、台湾省弁護士会会長、台湾省参議員、憲法制定の国民大会代表に当選。1947年の228事件の収拾のために設置された「228事件処理委員会」に出席するために、自宅のある台中から台北に出張。委員会終了後の3月10日に、自宅に戻ろうと台北駅に出向いたが、混乱で列車が止まっていた。このため、同じ中央大学法学部の卒業生で、台北で弁護士を開業していた李瑞漢氏宅に宿泊するため訪問。林連宗、李瑞漢、弟で同じく弁護士だった李瑞峰の3人で夕食をとっていたところ、国民党軍の憲兵数人がやってきて、3人全員を連行。それ以降、消息不明となった。
展示してある遺品ともいえる学生帽について、「林信貞提供」と記載があった。また、提供者の住所は、「台中市自由路四号」とあった。これらの展示物を頼りにたどっていけば、228事件で犠牲になった林連宗氏と提供した信貞さん、そして、李瑞漢・李瑞峰兄弟について、何かわかるかもしれないと思った。
ゼミ生たちとともに、まず林連宗氏の学生帽を提供した林信貞さんを探すことにした。調査は難航したが、ゼミ生の1人が李瑞漢氏の息子さんと交流がある日本人研究者がいることを見つけ出してきた。李瑞漢氏の息子さんは李栄昌氏(80)で、交流があるのは、本学経済学部の中川洋一郎教授であることがわかった。まさに、灯台もと暗しであった。李栄昌氏を紹介してもらい、そこから林信貞さんにたどり着くことができた。そして、林信貞さんは女性であることもわかった。
写真4:父親の林連宗氏(左)と一人娘の林信貞さん
2012年12月26日午前。台北市内の旅行会社「新亜旅行社」(張幹男・董事長)のオフィスで、林信貞さんとの面会が実現した。董事長(社長)の張さんも、実は228事件以降の「白色恐怖(テロ)」時代の受難者であり、調査活動の便宜を図っていただいた。信貞さんは車いすを使用されていたが、言葉も明瞭で、しっかりした口調で、日本語で3時間ほどのインタビューに答えていただいた。
彼女は、1930年9月2日生まれで、一人娘。82歳。台中市の新富小学校に6年間通った後、台中第一高等女学校に入学した。級長を務め、学芸会で独唱を披露したこともあったという。
「父親は仕事が忙しく、弁護士事務所、地方法院、台北の高等法院を行き来していました。でも、一人娘なので、とにかく可愛がってもらいました。当時としてはまだ珍しい動物園に一緒に行ったことがあります」
そして、1947年、16歳の時に228事件が起きる。林連宗氏は、事件の収拾のために3月1日に設置された「二二八事件処理委員会」に出席するために、台中から台北に出張する。父親と最後に別れた時の様子を、信貞さんは、次のように語った。
「父親から『お利口にしていなさい。行ってきます』と言われたので、私は『行ってらっしゃい』と見送りました。それが、最後の姿となりました。二度と会えなくなるとは思わず、普段通りに挨拶しました。そのことが悔しいです」
帰宅の日になっても、父親が帰宅しないことに信貞さんや母親、祖母は不安になる。そんな時、李瑞漢氏の奥さんから電話がかかって来て、3人が憲兵に連行されたことを知ったという。陳情書を出したり、司法・警察・行政などに問い合わせをしたりして父親の行方を捜したが、現在に至るまで消息は不明のままである。
「事件後は、みじめな生活を送りました。一家の大黒柱を失って、経済的にも大変でした。死体も遺骨もないので、お墓も作れません。その後も、白色テロの時代が続きましたので、228事件についての話は一切できませんでした。自分や周りの人も逮捕される危険性があったので、長い間、沈黙を守ったままでした」
最後に、信貞さんは、このように強調した。
「今でも、毎日お父さんの顔を思い出しています。怒りと苦しみを感じています。44歳で働き盛りの良い弁護士を、なぜ殺したのか…。政府は事実を明らかにして、正式に謝ってほしいです」
写真5:林信貞さん(左)とインタビューする総合政策学部3年の藤渕志保=台北市内で
同じく中央大学法学部を卒業して台北市弁護士会会長の職にあった李瑞漢、弟で同じ弁護士だった李瑞峰兄弟も、連行後は消息不明になっている。李瑞漢氏の長男の李栄昌氏は、父親が憲兵に連行された時は、台北建国中学(旧台北一中)の2年生だった。
「父親は厳しかったですが、優しい人でした。ある時、父親が基隆港から日本行きの船に乗っていたところ、台湾・花蓮行きの切符で間違って乗っている人がいた。父親はあわてて、船内の人たちから寄付を募り、その人に渡し、罪を問われないようにしたと聞きました」「しかし、父がいなくなって、一家の大黒柱を失って、家は死んだようになり、さらに貧乏になりました。ある夜目覚めたら、母親が泣いていました。昼間は絶対に子どもに涙を見せない人だったのですが」
国民党軍の憲兵隊に連行された3人が、最後に食べていた夕食は、スルメイカのお粥だったという。
「連行されたのは3月10日。だから、毎年3月10日になると、どんな場所にいても、私はスルメイカのお粥を食べ続けてきました。米国で勤務していた時も、同僚の誘いを断って、家で1人でスルメイカのお粥を食べました。事件のことを忘れないためにです」
李栄昌氏は、228事件の家族会の代表的存在として、現在も人権と名誉の回復を訴え続けている。東日本大震災の後に日本に寄付したが、その金額も、「2,280台湾ドル」だった。
写真6:李栄昌氏(右)とインタビューする法学部2年の幸田遥平=台北市内で
写真7:李栄昌さんの父で弁護士だった李瑞漢氏
この台湾228事件に巻き込まれた中大卒業生の数は、私たちの調査で判明しているだけで、約10名。しかし、その数は、今後の調査次第で、さらに増えそうである。
大学生のみなさんには、台湾を訪れたら観光だけでなく、ぜひ「台北二二八紀念館」を訪れてほしい。日本統治時代の台湾、日本敗戦と国民党軍による台湾接収、国民党軍と228事件、本省人と外省人の対立、中国共産党と国民党、国民党と民進党。そうした混乱と複雑さの中で、台湾は発展しつづけてきたということを学ぶことができると思う。