菅原 彬州 【略歴】
菅原 彬州/中央大学法学部教授
専門分野 近代日本政治史
7月27日(金)から8月12日(日)まで開催されるロンドン・オリンピック。中央大学からは、陸上競技部の飯塚翔太(法3)が男子200mと4×100mリレーに、舘野哲也(商3)が男子400mハードルに、水泳部の石橋千彰(総合政策3)が4×200mリレーに、さらに男子マラソンに山本亮(陸上競技部07卒)、男子フルーレの個人・団体に千田健太(フェンシング部09卒)の2人のOBが日本代表として出場する。6月22日に多摩キャンパスのセントラルプラザで、3人の学生選手の壮行会が開かれたが、これまで競技に取り組んできた熱情と努力が実を結び、メダルを手にすることを大いに期待している。
ロンドンは中央大学ゆかりの地である。1885(明治18)年に英吉利法律学校を創立した18人の若き法学者たちのうち、岡村輝彦・穂積陳重・増島六一郎・土方寧の4人が、ロンドンの法学院であるミドル・テンプルで英法の研鑽に励み、バリスター(法廷弁護士)の法曹資格を得たからである。
ミドル・テンプルはインナー・テンプル(Inner Temple)、リンカーンズ・イン(Lincoln's Inn)、グレイズ・イン(Gray's Inn)の3学院とともにインズ・オブ・コート(Inns of Court)を構成する法学院の1つである。「法学院」はまだ訳語として定着していないと思われる。インズ・オブ・コートが「法曹学院」と訳されることもあるが、穂積陳重はミドル・テンプルを「中央法院」、インナー・テンプルを「内部法院」と訳している。英吉利法律学校は1889年に「東京法学院」と改称され、さらに1905年に「中央大学」と改称されるところに、穂積が訳した「中央法院」との所縁が感得される。
1876(明治9)年6月19日、文部省は東京開成学校(翌年東京大学と改称)の学生の中から第2回留学生として10人を選抜したが、岡村輝彦と穗積陳重はその選に入り「満五年間英国ニ留学シテ法律学ヲ脩ムベキ命」を受けた。穂積の『英行紀事』によれば、留学生監督官ほか英行8人・仏行2人の11人は6月24日に太平洋飛脚船アラスカ号に乗船して太平洋を渡りサンフランシスコに上陸し、横断鉄道でニューヨークに到着した。それより大西洋郵船でリヴァプール入港、5時間かけてロンドンのユーストン駅へ到着した。同名のホテルで旅装をといたのは8月18日であった。
着英後について、穂積は「留学始末書」で「明治九年八月十八日より同十月迄法学院入学の手続に取掛かり、同十月二日英国倫敦大学得業士英国状師トマスデクールシーアトキンス氏に従ひ法律学を脩め、且つ法廷実際上の教授を受く。同日倫敦大学キングス校に入る、同十一月七日同校及第、中央法院の会員生徒となる」と記している。「状師」というのは法廷弁護士のバリスター(Barrister at Law)のことで、事務弁護士のソリシター(Solicitor)とは資格が異なる。11月のキングス校入校については、穂積の「ロンドン大学キングズ・カレッジ(夜間部)学生証」(入学登録書)が残されていて、それによれば、穂積はラテン語と英国史を履修している。キングズ・カレッジの30余に上る課目の中からこの2課目だけ履修しているのは、当時の「中央法院」が留学生に対する入学資格として英語・ラテン語・英国史の3課目の試験に合格することを求めていたからであった。
キングズ・カレッジで学び、ミドル・テンプルの「会員生徒」となった穂積の学修の成果は、1878年7月の試験により、年間ただ1人という「1等学士」に選ばれ、スカラーシップ(第1等栄誉禄・1か年100ギニー)が授与されたことに示されている。まさに健康に留意しつつ「白昼は常に書籍館に到りて諸書を調べ、夜間は在寓して四時以上は眠ら」ないという猛勉強の賜であった。岡村輝彦も猛烈な意気込みで試験に備えたが、過度の睡眠不足から脳貧血に陥り、試験は棄権したと推測されている。
かくして穂積は、1879年1月の最終試験も合格して法学院を卒業、めでたく「英国状師」となり、中央法院のバリスター名簿にその名を連ねたのであった。また、刻苦精励のあまり過労で倒れ遅れをとった岡村輝彦(仇名は「岡村ナポレオン」・「岡村北海」)も、翌1880年1月には卒業を迎え、バリスター免許を得た。
創立者のうち、穂積・岡村に続いてミドル・テンプルに入学したのは、父が61歳の時に生まれたので六一郎と名付けられた増島であった。神童の誉れ高かった増島は1879年に東京大学法学部を首席で卒業、三菱の岩崎弥太郎に見込まれ、その援助を受けて渡英し、1881年にミドル・テンプルへの入学を許可されたのであった。
当時の入学金は約50ポンドであり、そのほかにバリスターになった時に払い戻される預託金100ポンドを預けることを求められた。新入生には極めて高額であるが、これが法学院に所属し事務所をそこに有するバリスターの助成金などに充てられるのである。入学してからは、穂積・岡村と同じく、増島も「学期」(1年に4学期)に出席しなければならなかった。学期への出席とは、一定の回数(この頃は1学期に3回)、法学院の食堂で晩餐をとり、晩餐中またはその後に、制定法に関する「本」の朗読を聴くことである。増島は、1881年から83年にかけて、エリザベス朝様式の代表的な建築の1つといわれているミドル・テンプルの食堂(ホール)で約30回の正式な食事をとったと思われる。また、食事中や食後に法律や時事問題などについて議論することも大いに奨励されていたから、増島も同学の学生たちの議論に加わって交流し、友人や知己の輪を広げたことであろう。
増島が普段どのような学修をしていたかは、史料もなく定かではない。しかし増島も先にバリスターとなった2人と同じように受験準備に集中していたと思われる。テキストブックや年2回刊行の過去の試験問題と模範答案が印刷されている法曹資格雑誌を読み込んでいたであろうことは、現在、ミドル・テンプルの図書室に増島の肖像画がかけられていることからもうかがいしることができる。増島が所定の学期に出席し、4法学院の中で最大であったリンカーンズ・インの食堂でおこなわれた筆記試験・口述試験にも合格し適格審査手続を経てバリスターとなったのは、1883年6月6日のことであった。
土方寧も1882年に東京大学法学部で英法を学び卒業した。在学中から留学を希望していたが、家の事情もあって東京大学に就職した。助教授となったところで渡英の機会が訪れ、1888年から90年までミドル・テンプルの学生として英法の勉学に励み、バリスターの資格を得たのである。英国紳士風の鱒釣りや狩猟といった趣味もこの頃身につけ生涯のものとしたといわれている。
穂積・岡村・増島・土方ら18人の若き気鋭の英米法学者が、英米法の普及をめざして、東京神田錦町に英吉利法律学校を創立したところに「建学の精神」が示されているのであった。
穂積陳重は、ロンドンの「無類飛切なる悪空気、黒煙白霧」の中で学修にいそしむうち、次第に疲労感を覚え「遊歩するの気力」も失ったと記していた。これは岡村輝彦も同様であったらしく、穂積は「肝油を服して身体を補」いつつ、法学院の夏期休暇を待ち望んだとも記している。現今のロンドンは、産業革命・工業化を遂げ、絶頂期の「大英帝国」の首都として隆盛を誇った昔日とは様相を異にしている。モダンな高層建築が次々と姿を現す一方、中心部にはインズ・オブ・コートのように「静けさのオアシス」といわれるような地域や広大な緑の公園、それに歴史の重みを感じさせる伝統建造物などが訪れるものをひきつけてやまない大都市である。日本代表のみならずオリンピック出場の各国選手には、ロンドンがどのように映ずるのであろうか。