Chuo Online

  • トップ
  • オピニオン
  • 研究
  • 教育
  • 人‐かお
  • RSS
  • ENGLISH

トップ>研究>ドイツのゴシック小説

研究一覧

亀井 伸治

亀井 伸治 【略歴

教養講座

ドイツのゴシック小説

亀井 伸治/中央大学経済学部准教授
専門分野 ドイツ文学、比較文学

1.〈ドイツのゴシック小説〉という名称

 十八世紀末のヨーロッパでは、活版印刷技術の改良、広い階層にわたる読書能力の向上、そして貸本図書館や書籍行商人など配付手段の展開によって、前例のない数量の娯楽小説が出版されるようになりました。活字メディアにおける大量生産・大量消費時代の幕開けです。その主要ジャンルのひとつが、英国のホレス・ウォルポールの『オトラントの城』(1764)を嚆矢とする〈ゴシック小説〉Gothic Novelでした。〈ゴシック小説〉とは、幽霊の出没する中世の城などを舞台に、純真可憐なヒロインが悪漢や破戒僧に怖い目にあわされる怪奇的な小説のジャンルで、ホラー小説やサスペンス小説の元になりました。また、現在ファッションを中心に美学の新たな一様式となりつつある〈ゴス〉Gothも、遡ればこれに由来します。

 当時のドイツ語圏でも大流行していたこの類いの小説は、ドイツ文学では〈恐怖小説〉Schauerromanと呼ばれてきました。と言うのは、それらすべてのテクストに、戦慄の感覚を伝達しようとする物語効果が共通して認められるからです。〈恐怖小説〉は、英国のゴシック小説に比べても質・量共に決して遜色のないものであり、また、両者の間には多岐にわたる相互影響関係が存在していたことも早くから指摘されていました。ところが、英国のゴシック小説に関しては、ドロシー・スカーバラの『現代英国小説における超自然』(1917)に始まり、里程標的著作たるモンタギュー・サマーズの『ゴシック探究』(1938)を経て、さまざまな視点からの新しい考察がなされているのに対し、〈恐怖小説〉は、残念ながらドイツ本国でもほとんど顧みられることなく、従って、きちんとした研究と言えるものはほんの僅かしかありませんでした。この状況に変化が生じ始めたのは、1960年代の半ば以降、ドイツの〈通俗小説〉Trivialliteratur 全般を対象にした諸研究が現れるようになってからのことです。そして、さらなる大きな展開は、カナダの研究者マイケル・ハドリーによってもたらされました。その『知られざるジャンル』(1978)において彼は、このジャンルを包括的に論じ、そうして、〈恐怖小説〉をより国際的な研究の俎上に上せるべく、〈ドイツのゴシック小説〉German Gothic Novel という英語による統括的名称を提案したのです。

 こうした動向を踏まえて、わたくしは近年、〈恐怖小説〉、すなわちハドリーのいう〈ドイツのゴシック小説〉に該当する作品を調べ、このジャンル全体を通観する研究を提示しようと努めてきました。多彩なサブジャンルを包含するドイツのゴシック小説とドイツ・ロマン主義の小説の関係、そして、ゴシック小説とロマン主義小説を巡る英独両国間の関係は、これまでの文学史が教えるより遥かに広範で複雑です。確かに、ハドリー以降の研究によって徐々にそうした面が解き明かされてきてはいます。また、最近ようやく、ドイツの文学研究者たちの間にも、個別の作家研究を含め、この分野を本格的に研究しようという動きが見られるようになりました。しかしながら、その作業の進展はいまだ十分なものとは言えません。わたくしの研究は、その作業の一端を担うものであり、同時に、日本における十八世紀末ドイツ文学史研究の空隙を埋めんとするものであります。

2.ドイツのゴシック小説の種類と特徴

 では、〈ドイツのゴシック小説〉とは具体的には、どんな文学ジャンルなのでしょうか。それは大きく三つの主要なサブジャンル、〈騎士小説〉Ritterroman、〈盗賊小説〉Räuberroman、〈幽霊小説〉Geisterromanに分類することができます。

 〈騎士小説〉は、主に中世を舞台にした通俗歴史小説です。名前の通り、主に、鎧を身に固めた騎士の冒険が語られます。遠い過去という舞台背景は、作家が想像力を自由に駆使し得る効果的なホワイトボードでした。レオンハルト・ヴェヒターの『往時の物語』(1787-98)七巻と、閨秀作家ベネディクテ・ナウベルトによる、『ウナのヘルマン』(1788)をはじめとする多くの小説が、このジャンルの重要な魁とされています。

ハインリヒ・アウグスト・ケルンデルファー 『ウルメンハウゼン城の灰色の部屋』(1818年)、口絵版画と装飾画付扉

ベネディクテ・ナウベルト『ウナのヘルマン、秘密法廷の時代の物語』第二部(1789年)、装飾画付扉

 〈盗賊小説〉は、フリードリヒ・シラーの『群盗』(1781)の主人公を手本に造形された義賊の活躍を描くものや、同時代に実在した盗賊たちの非道な所業を犯罪実録風に綴った作品があります。いずれにしても、その中では、世俗的・宗教的秩序と権力に対する敵意があからさまな形で掻き立てられています。〈盗賊小説〉の代表的作品としては、ゲーテの義兄クリスティアーン・アウグスト・ヴルピウスの『リナルド・リナルディーニ』(1799)やハインリヒ・チョッケの『アベリーノ』(1794)を挙げることができます。

 〈幽霊小説〉は、降霊術や呪い、悪魔憑きなど、超自然的事象をその中心主題とする小説です。超自然の扱いについては二つの形式が用いられました。作中で本物とされる超自然と合理的に説明される超自然です。クリスティアーン・ハインリヒ・シュピースの『侏儒ペーター』(1791)には、悪魔の下僕であるペーターをはじめ、多くの「本物の」霊が登場します。他方、シラーの『招霊術師』(1789)やカール・グローセの『守護精霊』(1791-95)といった作品では、超自然的な不思議は、秘密結社に代表される強力な組織や人間による陰謀の一部としてか、あるいは、主人公と読者の双方に、超越的な世界に対する不健康なまでの熱中や夢想に耽ることの危険性を教えるべく、故意に設計された仕掛けとして、その謎が解明されます。

クリスティアーン・ハインリヒ・シュピース『老エジプト人の秘密』第二部(1798)、口絵版画と扉

カイェタン・チンク『ある招霊術師の話』第三部(1793)、口絵版画と扉

 現実の領域への超自然的要素の侵入は、それが最終的に説明されるものであろうとなかろうと、ゴシック小説においてひとつの中軸を成しています。何よりこのジャンルは、神秘と恐怖を主題とし、そこから利益を得る文学でした。ただし、それらの物語は、やはり啓蒙主義時代の文学ですから、人知を超えた存在の脅威は現実では有り得ないという認識の上に成立していました。この点からして、神秘的なものの合理化と、神秘を探求することとの間のディレンマに直面していた理性の世紀の作家たちにとって、小説の中で超自然的要素をどう処理するかは、つねに大きな課題なのでした。〈幽霊小説〉には、オーストリアのヨーゼフ・アーロイス・グライヒの著作など、無数の作品があります。

ヨーゼフ・アーロイス・グライヒ『短剣と燈火を持った血まみれの姿あるいはプラーハ近郊のシュテルン城における招霊』(1799)、円額装飾画付扉

3.現実不安とゴシック小説

 〈ゴシック小説〉という、十八世紀末から十九世紀初頭の数十年間に作られ、読まれた恐怖の文学は、文学テクストに対する読者の新たな関係を生み出しました。登場人物に自己を同一化させた読者は、奇妙にも自ら進んでその苦難と不安を共有するようになり、フランス革命などによる社会変動が喚起した現実不安は、次々と上梓される同じような物語に結び付けられることによって緩和されます。恐怖を虚構的に愉しむことへの欲求は抑制が利かなくなり、物語が提供する恐怖の慰撫こそが、熱心な読者には理想的快楽になって行きました。『オトラントの城』から1790年代に出版された法外な数の作品群まで、英国でもドイツでも、限りなく高まり行く人工的な恐怖刺激を愛好するレッスンが続けられたのです。時代毎の不安とその中にある読者、それらと文学テクストの対話は、繰り返し新たな恐怖ジャンルを生成することを要請します。このシステムは、ゴシック小説の誕生の瞬間から、現実不安を牽制する文学上の究極形態として機能し始めたのです。サド侯爵は「小説論」(『恋の罪』1800 の序文)の中で、英国のゴシック小説を「新しい小説」roman nouveau と呼びました。ドイツのゴシック小説もまた、英国の作品と同様に、その先駆的役割が正当かつ十全に評価されねばならないでしょう。

 以上、ドイツのゴシック小説について、ごく簡単にお話いたしました。すでに述べましたように、ドイツ文学におけるこの研究分野は、国際的にも発展途上の段階にあります。ましてやわが国では、まだほとんど知られていません。作品の和訳も、現在入手できるものとしては、このジャンルを初めて日本に紹介された石川實先生によるシラーの『招霊術師』の訳(邦訳題名『招霊妖術師』、戦前の別の翻訳では『見靈者』)と波田節夫先生によるシュピースの『侏儒ペーター』の二つしかありません(共に国書刊行会刊)。わたくしは目下、イグナーツ・フェルディナント・アルノルトという作家の『血の染みの付いた肖像画』(1800)と『分身のいるウルスラ会修道尼』(1800)の訳を試みているところですが、ドイツのゴシック小説には他にも面白い作品が沢山あります。研究を進めるのと並行して、今後は、それらのテクストを少しずつでも翻訳・紹介して行くことができればと考えております。

亀井 伸治(かめい・のぶはる)/中央大学経済学部准教授
専門分野 ドイツ文学、比較文学
奈良県出身。1963年生まれ。
1989年早稲田大学法学部卒業。1995年日本大学大学院芸術学研究科修士課程修了。1998年早稲田大学大学院文学研究科博士前期課程修了。2002年~2004年フライブルク大学留学。2005年早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。2008年文学博士号取得。早稲田大学比較文学研究室助手、同大学非常勤講師を経て、2012年より現職。
現在の研究分野は、十八世紀末ドイツの通俗小説およびドイツ・ロマン主義、特にE.T.A.ホフマンの作品。
主な著書に、『ドイツのゴシック小説』(彩流社、2009年)、『30日で学べるドイツ語文法』(ナツメ社、2008年)がある。