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西端 則夫

西端 則夫 【略歴

教養講座

ベトナム紅河デルタ農業にみる市場経済化の影響

西端 則夫/中央大学経済学部特任教授
専門分野 国際開発論、国際協力論、プロジェクトマネジメント論

1.ベトナム市場経済化前史

 第1次インドシナ戦争後、北ベトナム(ベトナム民主共和国)は「経済復興3か年計画」(1955-1957)を実施する。国民の大半が「農」に依存する農業国家であり、政府は農業の発展を通して農村経済を安定させることを目指した。その最初の施策がフランス植民地時代よりの大地主の農地を農民に無償で分配することであった。こうして独立農家は分配された狭小な農地(0.38ha/世帯)をもとに農村の慣習(労働交換など)と政府の農業協同化により社会主義的集団農業経営母体(合作社)として計画経済システムに組込まれていった。3か年計画が終わる頃より60年末にかけて北部紅河デルタ全農家の86%が合作社に加盟するまでに至り、1970年央には集落内の全農家が加盟するまでになる。また、1976年の南北ベトナム統一により南部メコンデルタの穀倉地帯が食糧生産基地として参入して来るので食糧問題は生じない筈であったが、現実は食糧供給一人当たり籾で300㎏を供出する計画が最大で20%もの減産となり、政府は100万トンに及ぶ米輸入を行わざるを得ないこととなった。計画生産・配給システムに関与する合作社職員・政府職員の生産評価と食糧の減配に農民は労働意欲を喪失していった。同時に、自己利用が承認されている請負耕作地の5%前後の「自留地」での自家生産に精を出したことも減産の要因の一つであったと言われている。合作社も設立当初に比べ組織自体が肥大化しており、また、ベトナム戦争後の施設の崩壊、資材供給の払底する中で生産隊が幾重にも形成され、生産隊間の連携も取れず生産非効率が顕在化していった。こうした状況を改善するため、制度そのものは変更せず、「生産請負制」(党中央政治局第100号、1981年)を導入し農民の営農へのインセンティブを維持しようと努めた。これは、合作社が評価する基本的食糧の一定数量を供出すれば、後は自己所有を許すものであったが、これも合作社職員のさじ加減で供出量を増減されることとなり、意欲的に生産しても供出量を高めに設定されたり、また農地の利用期間が5年と制限されていて生産意欲を削ぐものとなった。請負制の生産拡大効果は期待したものとは異なり、あらためて配給米を輸入調達するなど80年代央より深刻な財政難に逢着することとなった。1988年には最悪の食糧飢饉が生じて900万人以上が困窮、300万人以上が飢餓状態を経験することとなる。

 このような政治経済社会的環境の中で新経済政策(ドイモイ政策)が模索された。

2.新経済政策(ドイモイ政策)と農家

 1986年第6回党大会で採択され、経済システムを市場経済化し、対外開放を行い、国営企業の改革と民営化、農家の個人経営を含めて私的個別経営企業体とし自由経済のアクターとするものであった。これに続き、1988年には共産党書記局第10号が決議され配給制度(バオカップ制度)の廃止、計画主義的協同組合農業を個人農家経営システムへの転換を促すこととなった。この政令のもつ意義は、合作社所有の土地使用権が農家に均等に分配され、更に、価格統制の廃止、生産物及び生産資材の流通自由化、旧生産隊の解体、合作社の縮小などが行われ合作社への農産物供出などの義務から解放され自由に独立して営農を行いうるようになったことである。しかしながら、分配された農地使用権(当初15年限定)の使用期間の短さや、合作社所有面積の15%を合作社が保留地として確保し、これを入札などにより貸し付けたり、処分したりするに際して必ずしも明確な方針があったわけではなかったとされている。分配された農地の法的性格が明確にされるのは、1993年の「土地法」によってである。ここでは、15年の農地使用権が、通常作物用地には20年、永年作物栽培用地や養殖池地には50年の期間が保障され更に、交換・賃貸借・譲渡・相続・抵当権が認められることとなった。5年後の98年には、土地所有上限が撤廃され生産性向上を目指した施策がとられるようになる。この時点で同年「政府命令第64号」により土地が家族成員数・年齢に応じて、地域ごとにそれぞれの農家に分配され、ほぼ現在の農家の姿が形成されるのであるが、最後の土地分配が為されてから既に約20年が経過し、この間の家族構成員の変化(死亡・転出・結婚・子供の誕生など)に応じた土地再分配が行われていないことが現在の政治的課題となっている。また、北部紅河デルタ地域農業そのものの個性である、土地の狭小性(農家1世帯当たり0.28haの土地使用権所有:所謂3反歩農家)、人口圧力の高まりによる労働生産性の停滞などは今も課題となっており、政府の土地集積化農業の推進策を前にして殆ど変化は見えない。これに関して付言すべき点は以下のとおりである。

 1954年以降1993年までの累次の土地使用権の分配に関しては、ベトナム農村社会を貫徹する平等互恵主義原則によって行われている。従って、共同体内での農地に優劣を付し、これを平等に配分することとしているため、1農家当り0.28haの農地であっても優等地、劣等地、優劣中間地を含めて数筆以上の零細の土地を併せ持つ(零細分散錯圃)こととなり、これも生産効率を落とす要因となっている。

3.偏った資源配分による経済発展(農工間格差)

 ベトナム国家統計局(GSO)によれば全国工業生産の86%がハノイ市首都圏とホーチミン市域により産み出されており、この両地域に全人口の40%が集中している。つまり、ハノイ首都圏とホーチミン市域に居住しない残りの約60%の人口で全国工業生産の残り14%が生産されているということを意味する。工業成長がいかに二極化された形でもたらされているか理解できる。このような偏った経済成長は首都圏とホーチミン市域への政府投資が長年にわたり行われてきた結果である。長い戦乱のあとの経済社会インフラの充足に対して希少な国家資源を優先的に首都と南部工業地帯を有するホーチミン市域に集中したためである。資本形成が政府によってなされたというより90年代に入り、特に93年からの3年間は外国直接投資とODAが集中し合計でこの間の投資総量の40%ちかい額が両地域のインフラ整備に投資された。これにより、国民総生産と工業化は着実に成長をするが、それは投資の対象と地域が都市・工業部門に向かったためいびつな二極分化型の産業構造を見せることになる。経済成長に関しては、2007年のGSO統計によると農林水産部門、鉱工業部門、サービス部門はそれぞれ3.7%、10.2%、8.9%となり平均では8.5%であるものの、農業部門がきわめて低い生産性を示している。また、就業人口とその割合は農林水産部門、鉱工業部門、サービス部門でそれぞれ2390万人(53%)、850万人(19%)、1270万人(28%)となっており、一人当たりGDPによる農工間の格差は6倍の開きとなる。全国・都市・農村の貧困者比率(総体的貧困)は10年前の98年がそれぞれ37.4%、9.0%、44.9%であるのに対して2007年では15%、7%、17%と都市を除いて半減以上していることがわかる。貧困ラインは都市で月額50万ドン(邦貨1905円:2012年5月7日現在の為替レート使用)、農村部で月額44万ドンとされており、他方、都市最低賃金が110万ドンであるが、これでも都市での生活が困難であり出稼ぎ者が帰農するという。インフレ率が32.1%(2011年11月時点対前年比:GSO)と過去5年にわたり20%代を超えて推移していることは大きな社会的課題であり、特に出稼ぎ農民には耐えがたい苦痛となっている。都市への出稼ぎも容易ではない。

4.農村の貧困と富裕<フューディエン村とフンサー村の農家>

 ハイズン省は、ハノイから国道5号線を東(ハロン乃至はハイフォン)に向かい、ハノイから40分程度走ったあたりを北に折れ、40分足らず走ったところがナムサック郡フューディエン村である。ハノイから60Kmくらいである。

 二日にわたり通い、構造型・非構造型の両調査手法を混在させながら合計7件の農家を単独調査した。概要は以下のとおりである。農家7軒の属性調査から開始した。土地使用権の所有に関しては、7サオ(360㎡/サオ:0.25ha相当)、8サオ(0.29ha)、11サオ(0.4ha)、12サオ(0.43ha)、28サオ(1ha)であり、この1ha農家の1軒を除いてともに所謂3~4反歩農家である。この集落は、もともと稲作一辺倒で生計を維持してきたがこの地域は特に低湿地で排水が悪く稲作2期作が困難な地域であった。1998年に至り行政の支援のもとに池を掘り養殖を行うようなった(行政からの池掘削費支援は2001年まで行われた)。同時に屋敷地での養豚および野菜生産を行うようになる。VACモデル(家畜・養魚・野菜栽培の多角化モデル)の導入である。各農家は、家畜・養魚・野菜栽培を稲作とともに土地資源の見合いで組合せて多角化をはかり農家所得の最大化を図るように行動していると考えられる。各農家の組合せが所得最大化に向けて行われているかは必ずしも明確ではない。ただ、1ha農家は土地資源の90%を養魚に充てており、一人当り月間等価可処分所得は2200万ドンであった。農村部貧困ラインが一人当り月間等価可処分所得で44万ドンのことを思えば50倍の高所得でありこの集落内でも随一の富農である。この7軒のうち最も所得の低い農家でも一人当り月間等価可処分所得161万ドンの所得である。現地でのヒアリングの結果、贅沢をしない普通の4人暮らしをするためには200万ドン(邦貨7600円:2012年5月7日為替レート)は必要だ、との情報を得た。一人当り月間等価可処分所得に換算すると100万ドンであるので、この低所得の家庭でも人並以上の生計が可能であると判断される。この集落内訪問7軒の平均一人当り月間等価可処分所得は約660万ドンであり、豊かな集落であり農家群であると結論してよいだろう。では、このような農家の農業経営への思惑・狙いはどこにあるのだろうか。彼らは多くの制度的・非制度的組織に加盟しており、情報交換が活発、また会合自体が頻度多く開催されている。農民間のネットワークもかなり濃密であるように見受けられた。しかも、バイクを保有しており野菜・魚の販売には卸商人を利用したり、自身で郡内市場に持ち出して販売している農家もいる。自転車利用のマーケットアクセスの距離は大体30㎞圏であるが、バイクならもう少し遠方のマーケットにも出動可能であろう。ただ、ハノイ首都圏までは出ない。市場の存在、農産物価格情報、農業・家畜技術へのアクセスには敏感でサミュエル・ポプキンの「合理的小農」の姿を彷彿とさせる。農家の表情も明るく外向き志向、各家庭の所得最大化を狙いとしていると言えよう。

フューディエン村 VACモデル農家の養殖池

 他方、旧ハタイ省(現ハノイ市)クォッドン・フンサー村はハノイ市より北西部へ車で1時間半程度のところで35㎞の距離にあるハノイ市周縁農村地帯である。近年、都市工業化の波に押され近隣にも工場が稼働を始めている。自転車ではハノイまで遠く、バイクなら通勤可能な地域である。7農家での調査結果では、土地使用権所有状況は次のとおりである。13.9サオ(0.5ha)、6サオ(0.22ha)、7.8サオ(0.28ha)、2.6サオ(0.09ha)、5サオ(0.18ha)、3サオ(0.11ha)、2.6サオ(0.09ha)である。この村では養殖池もなくVAC農業は行われていない、都市周縁部純農村地区である。農業所得(米2期作)は一人当り月間等価可処分所得で算出すると、176万ドン、32万ドン、33万ドン、26万ドン、103万ドン、残りの2軒は不足する米を毎月一人当たり6万ドン、8.4万ドン買い入れている、つまり農家所得は自家消費としてなお赤字を計上している。これは上で述べた農村貧困ラインを割っており生存が危ぶまれている。この集落は昔から超零細農業によって食えないこともあり、伝統刺繍工芸品生産を副業としてきた。この村は刺繍工芸村でもある。刺繍工芸品生産に関しては、刺繍工芸品のまとめ役(資材調達・生産・販売ルートを抑えている)が近隣の農家に下請けに出している。下請農家は製作賃料を受取り、家計所得の足しにしているのである。また、バイクを使ってハノイ市内の小さなレストランにコックとして働いている者、近隣繊維工場で労働する主婦、小規模の家畜生産を行う者などがいてそれぞれ所得の拡大に奔走している。こうして、計算された一人当り月間可処分所得は、420万ドン、32万ドン、427万ドン、138万ドン、387万ドン、1358万ドン、148万ドンと格差の多い所得構造となっている。訪問した農家で所得が400万ドン前後以上の農家間の人的ネットワークは緊密であり、それらの者は村長、農民会会長、刺繍工芸品まとめ役などに与っている。その他の低所得農家は、高所得農家との人的緊密さはあまり見られない。

 この集落の平均の一人当り月間等価可処分所得は416万ドンで先のフューディエン村平均所得の60%しか所得を獲得していない。

旧ハタイ省(現ハノイ市コッドン フンサー村水田風景

 両農村を訪問してわかったことは、先のフューディエン村の農家の方が明らかに明るい表情をし、笑いも絶えず、エネルギッシュであった。また、各「会」組織の活動がフンサー村より活発であることも印象的であった。フンサー村の低所得農家の農外労働である伝統刺繍工芸品も技術水準の限界から所得向上を期待させるものではなかった。ただ、村内の寡婦・高齢者、低所得農家には村内農家が米などの差し入れを行うなどして生活支援を行い、相互扶助・労働交換の慣行がなされている。紅河デルタに特徴的な平等互恵主義の価値認識が今も生きていると実感されるものであった。この集落での、集落を挙げて所得拡大の機会を創出しようとするような気風は見られず、先にも述べた年間20%~30%を超えるインフレの昂進によって、早晩人々は貧困ライン以下に向かってゆくのであろうか。貧困を共有することにもやがて限界が訪れるだろうが、その際にはどのような生存を担保するのであろうか。

 こうした豊かな農村が存在する一方で貧困を極める農家が拡大している状況が2012年初頭のハノイ市周縁農村の実情である。もう少し、マクロ的な観点で言えば、農村の購買力の停滞は工業セクターの足を引っ張ることは必定であり、かつ海外直接投資によって維持されている現在の経済成長にもこのまま農村停滞が放置されれば悪影響を及ぼすことは明らかであろう。

 近年の経済中心主義的社会と貧困を共有するような互恵的な農村の併存は、それぞれの集落・村落内、集落・村落間の社会関係を今後大きく変化させうる要因となろう。

(本現地調査は平成23年度科研費により実施したものである。現地調査に際してはISPONRE Prof. Nguyen The Chinh, NEU Prof. Nguyen Thi Than Thuy, Eco Eco Mr. Nguyen Sy Linh, Hanoi University of Agriculture, Vice Dean Prof. Nguyen Van Song, Prof. Nguyen Mau Dung, Sr. Lecturer Mr. Ho Ngoc Cuong, Sr. lecturer Ms Do Thi Diep, Mr Phan Anh Ducなど多くの研究者・実務家・友人にお世話になりました。感謝します。)

参考文献
  • 長憲次[2005],『市場経済下ベトナムの農業と農村』筑波書房
  • トラン・ヴァン・トゥ[2010],『ベトナム経済発展論―中所得国の罠と新たなドイモイ』勁草書房
  • Geertz, Clifford [1963] Agricultural Involution, University of California Press.
  • Little, Daniel [1988] Collective Action and the Traditional Village, Colgate University
統計資料
西端 則夫(にしはた・のりお)/中央大学経済学部特任教授
専門分野 国際開発論、国際協力論、プロジェクトマネジメント論
1947年4月23日兵庫県生まれ。
1981年英国ブラッドフォード大学大学院修了。1983年オランダエラスムス大学大学院社会科学研究所博士課程単位取得退学。国際協力機構(JICA)で32年間勤務ののち、東京外国語大学大学院客員教授を経て、2004年4月より中央大学経済学部特任教授に就任。経済学部、総合政策学部、大学院で国際開発論、演習などを担当。
稲城市第4次長期総合計画審議会会長、稲城市教育委員会市民大学講座講師、NPO法人JADE-緊急開発支援機構理事、
JICA外国政府要人研修指導者、ジェトロアジア経済研究所「アフリカ研究会」専門委員などを歴任。
海外勤務経験:在ナイジェリア日本国大使館、モンゴル国外務省。