高橋 薫 【略歴】
高橋 薫/中央大学法学部教授
専門分野 フランス語、フランス文学、フランス16世紀研究
大袈裟なタイトルを掲げましたが、それに見合う内容をお話しできるかどうか、あまり自信がありません。日本ではいまから80年ほどまえから、渡辺一夫さんという傑出したフランス16世紀研究者がすぐれた翻訳や研究を発表するようになりました。渡辺さんはその後数十年をかけてフランソワ・ラブレーという、フランス16世紀前半を代表する大思想家の、一見滑稽物語、その実内容の深い文学書、『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』全五巻を翻訳しましたが、そればかりでなくフランス16世紀の、本国ではよく知られているものの、日本ではまったく無名であったひとびとの生涯や作品を紹介し、日本におけるフランス16世紀研究の礎を造って、多くのお弟子さんたちを育てました。ただ残念なことがひとつあって、それは渡辺さんの業績が凄すぎたために、お弟子さんたちが謙虚になりすぎたことです。さいわいなことにお弟子さんたちの代も変わり、たとえばわたしのような、渡辺さんとは縁もゆかりもない無手勝流の馬の骨がフランス16世紀となにがしかの係わりをもつことができるようになりました。そのようなわたしがどうしてフランス16世紀と係わりをもつようになったか、フランス16世紀研究にどのような意義があるか、その課題とはなにか、馬の骨の視点でお話ししたいと思います。
個人的にいえばわたしはいわゆる「全共闘世代」の端に属します。わたしの屈折した思いがあって全共闘運動も(シンパシーはありましたが)、それに反対するひとたちの運動にも、いわば斜から眺めていましたが、しかし思想と思想がぶつかりあう、或いはお互いに痛罵しあう、そして浅間山荘事件にいきついた党派の論理の影絵を、時間と距離をおいて映し出すフランス16世紀の舞台、とくにその後半の血で血を洗う宗教戦争の登場人物たちは、取り組むには手ごたえのある相手でした。
さてわたしの個人的な感慨はさておいて、欧米の学会においても16世紀は大いに魅力的な時代であるようで、アメリカにはその名も『16世紀』という学会誌がありますし、カナダにも『ルネサンスと宗教改革』、スイスにも『ユマニスムとルネサンス文庫』があり、フランスの『ルネサンスと宗教改革』、『16世紀』の名もすぐと浮かんできます。もっと限定していえば、フランス16世紀後半を代表する思想家モンテーニュには『モンテーニュ学会誌』がフランスにあるかとおもえば、『モンテーニュ研究』というアメリカの学会誌もある、という具合です。なぜ16世紀はそれほど研究者の耳目をあつめるのでしょうか。
16世紀のとば口には「新大陸の発見」があります。15世紀の半ばに発明された印刷術がその威力を発揮し始めるのも16世紀に入ってからです(ちなみに1500年以前に刊行された本は揺籃本とよばれ、1501年以降の刊行物とは値打ちが格段に違うとされています)。またイタリアでは「人文主義」という、それまでの神や教会を中心とした世界観から人間に光を当てた世界観への転換と、「ルネサンス」という、「原典に帰れ、古典古代を見直そう」という運動が起り、イタリア戦役(1494年から1559年にいたる領有権をかけてのフランス軍によるイタリア出征)の過程でフランス文化に大きな影響を及ぼしました。一方「原典に帰れ」とはルネサンスだけのモットーではなく、フランスやドイツ、ネーデルラントではローマ教会に対する不信と対をなして、「福音書」の教えに沿うべく唱えられました。ドイツ人マルティン・ルターがその代表で、彼が始めた「宗教改革」は欧州各地で賛同者を生みました。とりわけスイスのジュネーヴを統治したジャン・カルヴァンを始祖とするカルヴィニスムは新大陸に移住したひとびとにも影響をあたえ、現在なお『1560年ジュネーヴ版聖書』がアメリカではリプリントで刊行され多くのキリスト教信者の支えとなっています。要するに16世紀というのは、ちょうど日本の安土桃山時代に、年代的にも文化的にも相当し、その後の欧米文化の路線を決めた時代でした。そしてヨーロッパのひとびとは無論、「過去」というものを持たないアメリカのひとびとたちも自分たちのアイデンティティの拠り所としてこの時代に格別な思いを寄せているようなのです。
さて、わたしはフランス語の教師ですから、フランスにおける「16世紀研究」の歴史をなぞってみましょう。フランスでは自国の16世紀を評価するにあたって、ふたつの視座がありました。ひとつは宗教改革とその鬼子である宗教戦争をへて、「ナントの勅令」に結実し、はじめて封建領主の所領ではなく、国家の体裁を備える王国の統一に至った、近世初期としての肯定的側面、ひとつは文明論的に見て、フランス人の誇りである17世紀という古典主義の時代以前の、明晰ならざる朦朧とした文学をやまと残したという否定的側面です。前者に関しては、18世紀初頭から16世紀の古文書に非常な関心が寄せられ、さまざまな史料が版をあらためて刊行されました。一方、文学畑では例外はあるものの、新旧論争(古代人=ギリシア・ローマの文学と17世紀以降のフランス文学のどちらが優れているか、という夜郎自大な論争)の種にさえならず、「古典主義文学発生以前の文学」とひとくくりにされていました。明治の廃仏毀釈が思い出されます。それはさておき19世紀の最初の四半世紀ほどになってようやく、16世紀文学の意義をめぐって論壇から問いかけがなされましたが、それでもそれから一世紀くらいは大作家・大詩人をめぐる蛸壺的な研究が主流で、しかも当時思想界を席捲していた実証的進化史観を背景に、どのように近代文学の土台となったかという程度の認識をもってなされたものでした。事態が急変したのは、文学界からではなく歴史学の分野でした。ときは1942年、リュシアン・フェーブルというこれも当時の歴史学界では異端者的だった学者が『16世紀における不信仰の問題』という画期的な著書の一部をさいて、16世紀には16世紀固有の文明があったんだ、という持論を展開しました。たとえば19世紀・20世紀こそ五感の中で視覚に特別な地位が与えられていますが、16世紀では聴覚が視覚より優先されていたのだ、と言っています。「視覚=聴覚」問題にかぎっていえば、その後新しい研究も出てきて、フェーヴルさんの言い分が必ずしも正しかった、とは認められなくなっていますが、この論文の衝撃は驚くべきものでした。思想界全体を見回すと、1960年代に入って、ミシェル・フーコーという哲学者が時代時代にそれぞれの「知の体系」があるんだ、と言って、コペルニクス的転回をもたらしたと言われていますが、フェーヴルさんはその20年もまえにフーコーさんに類したことを言っているわけです。
フェーヴルさんの論文はさまざまな影響をあたえました。文学に限って言っても、時代を越えて生き残った大詩人・大作家よりも、時代に埋もれた群小作家・群小詩人の方が時代を反映しているのではないか、という方向性が出てきたり、進化史観を排して実証性を徹底させようと、古文書館の埃を被った文書のやまからひとつの名前を探り出したりする(言い添えておきますがわたしはこういう作業、嫌いではありません)方向性が出てきたりしています。残念ながら日本では16世紀研究のこうしたさまざまな試みが十分行きわたっているとは言えません。それは地理的な条件のせいでもあり、また大作家の方が史料にも恵まれていたり、せっかく勉強しても日本でそれを受け入れる基盤がなかったりするからでもあるのですが、大きな理由のひとつとしてコンピューターのハード・ソフト両面での進歩があげられます。欧米の学術出版社が大作家・群小作家をとわず、それまで活字になった作家・詩人の作品をどんどんソフト化し、ひとつの単語を調べる労を一挙に失くしてしまったのです。これは便利なようですが、弊害もあるように思われます。古文書の山をかき分けながらひとつの単語をさがす過程で、研究者はいやおうなく、それらの古文書を読んでいきます。そしてそれらに関する知識が意識しなくとも身についてしまうのです。ところがコンピューターで単語を調べるには、そんな過程は不必要です。わたしはコンピューターを使うな、と言っているわけではありません。文明の利器を使わないで済ます手はありません。しかし、ときとしてコンピューター慣れした「現代っ子」が逆の意味で古文書の山を敬遠するのを恐れているのです。これは耄碌した老人の杞憂でしょうか。ともあれ一介の文学好きとして、文学が大切に読まれることを切に願うものです。