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トップ>研究>中央大学の「建学の精神」と「校風」

研究一覧

菅原 彬州

菅原 彬州 【略歴

教養講座

中央大学の「建学の精神」と「校風」

菅原 彬州/中央大学法学部教授
専門分野 日本政治史

専門学校からはじまった私立大学

 今日存在する大手私立大学について言えば、慶応義塾大学を除き、その大半は明治10年代以降に創立されている。国家がつくる官立大学とは異なり、これら私立大学は、1人の創立者あるいは複数の創立者たちが独自の教育理念を掲げて、近代日本の建設と発展に必要な人材の育成をめざして、その歴史と伝統を築いてきている。明治初年の日本は、幕末の開国による不平等条約の締結によって、欧米先進近代国家を中心とする国際社会の中で劣位のポジションを余儀なくされていた。明治政府は、国際社会での地位向上のために外国人を雇い入れ、日本近代国家の建設すなわち「近代化」に不可欠の人材を各分野で育成しなければならなかった。しかし、人材育成にあたる「教師」は不足しており、そのため欧米に留学生を派遣したり、官立の学校を設立して欧米の外国人「教師」を雇い入れた。このような状況のもと、明治期創立の私立大学の多くは、まさに個別分野の専門学校として誕生したのである。

年史編纂の目的

 中央大学の場合、明治18(1885)年、18人といわれる創立者たちがイギリス法(英米法)を教授する「英吉利法律学校」を創立したのであった。それは、欧米先進諸国で確立された近代社会の秩序を律する「法の支配」すなわち「法治国家」を実現するにあたって、また、近代日本の対外的国家目標としての「万国対峙」具体的には「条約改正」の実現のためにも、イギリス法の知識を身につけた人材の育成が求められていると考えたからにほかならなかった。歴史と伝統を有する他の私立大学も同様であるが、法律専門学校として産声をあげた中央大学も、大正7(1918)年に公布された大学令により、大正9年に正規の大学として認可され、新たな総合大学としての発展を遂げてきたのであった。この間、創立20年、25年、50年、70年そして100年を節目として、年史が編纂されている。これらの年史編纂に際して、創立者たちが英吉利法律学校を創立したその「建学の精神」はいかなるものであったのか、それはその後どのように承継されてきているのか、英吉利法律学校、東京法学院、東京法学院大学そして中央大学と校名を改称しながら、総合大学へと発展してきた歴史と伝統を明らかにすることが編纂の目的となっていたことは言うまでもない。

中央大学の「建学の精神」

 ところで、中央大学がこれまで発信してきた中央大学の「建学の精神」について言えば、それが四文字熟語的な表現ではなかったため、その意味するところに大きな違いはないものの、説明の文章表現はさまざまであった。そこで、平成22(2010)年の中央大学創立125周年を機に、その年3月に「建学の理念」文案作成検討専門委員会の設置を決定し、第1回委員会で名称を「建学の精神」文案作成検討専門委員会と改称し、10月に成案をみた。そして、本年1月から2月にかけてこの成案を今後中央大学の「建学の精神」を説明する文章表現として、学内外に発信することが決まったのである。

 ただ、学外のメディア媒体に文章を掲載する時、字数が制約されたり、また、中央大学が「建学の精神」をふまえながら未来に向かっていかなる展望をもっているかを示す時には、その文章表現にヴァリエーションが生ずることは言うまでもない。それはそれとして、本年作成された『大学概要』には、確定した「建学の精神」の文章が正確に載っているのでそれを示しておきたい。

 「中央大学は、1885(明治18)年、18人の若き法律家たちによって「英吉利法律学校」として創設されました。
 創立者たちがこの学校を設立した目的は、イギリス法(英米法)の長所である法の実地応用に優れた人材を育成するために、イギリス法の全科を教授し、その書籍を著述し、その書庫を設立することにありました。
 創立者たちの「建学の精神」は、抽象的体系性よりも具体的実証性を重視し、実地応用に優れたイギリス法についての理解と法知識の普及こそが、わが国の独立と近代化に不可欠であるというものでした。それゆえ「實地應用ノ素ヲ養フ」教育によって、イギリス法を身につけ、品性の陶冶された法律家を育成し、わが国の法制度の改良をめざしたのです。
 創立者たちは、イギリス法が明治の日本を近代的な法治国家にするために最も適していると確信し、経験を重んじ自由を尊ぶイギリス法の教育を通して、実社会が求める人材を養成しようとしたのでした。」

創立時からあった「質実剛健」の校風

 それぞれの私立大学には、その学校に特徴的な雰囲気を示すものとしての「気風」なり「校風」がある。中央大学の場合は、「質実剛健」である。しかし、この「校風」は創立当初からこのように表現されていたわけではない。一般に「質実剛健」は明治40年代から大正期にかけての教育政策で強調されてきた表現であるが、中央大学の場合は、大正3(1914)年の卒業式での学長訓辞を大学の機関誌『法学新報』に掲載するにあたり、編集者が「質実剛健の校風」という標題をつけ、それ以来「校風」は「質実剛健」という四文字で表現されてきた。ただ、その表現が社会一般に強調された時勢に合致していたとしても、その内実について言えば、それは、明治18年の創立当初から見られたのであり、英吉利法律学校の創立者をはじめ学生たちが醸し出していた「気風」でもあったということも確かなところである。

戦時下で登場した新たな校風

 その意味で、大正期から定着してくるこの伝統的精神としての「質実剛健」という校風は、「建学の精神」を淵源としており、その後の歴代の中央大学学長や理事者たちも、入学式・卒業式の式辞や挨拶でこの言葉で示されるものが中央大学の校風であると、述べてきている。しかし、大正から昭和へと時代が変わるにつれ、「質実剛健」の意味付けにも変容がみられることになる。それは、近代日本の「近代化」は、換言すれば、近代天皇制国家の成立をもたらしたのであり、日本の「国体」に象徴される日本精神、個人主義を排する国家主義・全体主義の鼓吹にともない、それらとの同一化が強調されていくのである。昭和13(1938)年、司法の三長官職(司法大臣・大審院長・検事総長)を歴任した林賴三郎が中央大学出身者として最初の学長に就任したのは、大学挙げての慶事であった。だが、戦時体制下という時代状況でもあったことを考慮するとしても、林新学長は、「質実剛健」のほかに新たに2つの標語「自主的信念」と「家族的情味」を加えるに至った。

 前者の「自主的信念」は、偏狭かつ独善的な非寛容の態度を排するものであったが、「極端なるデモクラシー思想」・「赤き思想」に感染・心酔しないことを意味し、後者の「家族的情味」は、「師弟の義、長幼の序」といったタテの儒教道徳をもとに、中央大学の構成員たる教職員・学生は相互に「一大家族のような情愛」を持っているということを意味していた。法学部の1教授は「中央大学が家族主義・民族主義・国家主義である以上は当然に全体主義でなければならない」とまで、この「家族的情味」を敷衍している。

総合講座「中央大学と近現代の日本」

 「質実剛健」に加えて新たに登場した「自主的信念」・「家族的情味」が伝統的精神として称揚されえたのは、昭和20年の敗戦直後と20年代後半から30年代始め頃までであった。敗戦後の日本が新生民主主義国家としての道を歩んでいくとすれば、戦時下での意味付けのもとに登場した標語は除かれざるをえない。けれども「質実剛健」が「建学の精神」に淵源をもっていることは間違いなく、それ故、戦後においてもなお「質実剛健」は中央大学の校風として語り継がれてきたのであるが、近年における「家族的情味」の再登場は何を意味しているのであろうか。戦前における意味付けを忘却するわけにはいかない。

 各大学が50年史・100年史などの年史を編纂していくにつれ、自校の歴史と伝統をいかに継承していくかという意味で、U.I(ユニヴァーシティ・アイデンティティ)の重要性が認識され、そのための自校史講座が複数の大学で設けられてきた。中央大学でも2004年度から法学部の総合講座の1つとして「中央大学と近代日本」を設け、2009年度からは「中央大学と近現代の日本」と改め、125年の歴史と伝統をもつ中央大学で学ぶことの意味を受講生に考えてもらうようにしている。この講座のねらいは一部他校のように愛校心涵養を第一義的な目的としてはいない。この講座で「建学の精神」と「校風」について講義し、その結果、中央大学の学生として愛校心をもってもらえればよいのであって、あくまでも中央大学の歴史と伝統と近現代の日本の歩みとの連関性を学び、「実地應用ノ素」を身につけた卒業生としての活躍を期待しているのである。

菅原 彬州(すがわら・もりくに)/中央大学法学部教授
専門分野 日本政治史
1944年北海道に生まれる。1969年中央大学大学院法学研究科政治学専攻修士課程を修了後、中央大学法学部助手、助教授を経て、1982年より教授。この記事については、論文「戦前から戦後にかけて謳われた中央大学の『校風』」(『中央大学史紀要』)第16号、2011年3月)がある。