近藤 昭雄 【略歴】
近藤 昭雄/中央大学法学部教授
専門分野 社会法学
今年も、また、「暑く、熱い夏」がやってきた。
通学部の前期授業と試験が終わるころ、この多摩の地に、全国各地から、通教生がやってくる。
通信教育課程では、通常、在宅で、指定された教科書を読み、出題された課題につきレポートを作成することを通して、その学修を深めるという形を基本とするが、卒業必要単位のうちの一定単位を、「面接授業(スクーリング)」を受講し、受講後に行われる試験に合格するという形で、取得せねばならないことになっている。そして、中央大学の通信教育部である以上、その授業は、原則、大学の校舎を利用して、われわれ教員が実施する訳であるから、不可避的に、通学部の授業がない、「夏休み」の時季に行われることになる。そこで、日常的には、自宅学習に従事している多くの通教生が、全国各地から、この多摩の地にやってくるわけである。
まさに、通学部の学生が、「暑さ」を避けて休むこのときに、この「暑さ」の中へ向かって、勉強をしに、やってくるのである。しかも、彼らは、当然、地元において、それぞれの職務に従事し、それをもって生活の糧としているわけであるから、そのような営みを一時中断し、そこから得るはずのものを放棄して、むしろ逆に、受講料のみならず、多摩の地での宿泊と生活のための費用とを特別に負担して、まさに、「勉強をするため」に、やってくるのである。
わが国の雇用慣行は、その処遇は、入職時学歴を基本とするから、入職後、新たな学歴が付加されたとしても、処遇面で、直ちに変化・上昇がもたれされるものではない。もちろん、通教生の中には、アルバイトで食いつなぎながら、卒業後、その資格を前提に、職を得ようとする者や、他の職務にステップアップを図ろうとする者もいないではない。しかし、大半は、上記のような無償の営みとしての通教学修であり、スクーリング受講である。そして、そのベースにあるのは、ただ、ただ、「中央大学法学部で学びたい」、そこで、真の学問に触れて、「自らの質を高めたい」という、「熱い思い」のみである。
中央大学において、通信教育部を設置しているのは、法学部のみである。したがって、他学部の先生方が、「夏休み」において、前期労働からのリフレッシュを図り、あるいは、研究の深化のための研究業務に専念されているとき、われわれ法学部教員の宿命として、スクーリングにおける講義に従事しなければならないというのは、正直、過酷に過ぎる負担であり、研究活動にとっての絶大なマイナスである。しかし、それにも拘わらず、法学部の教員が通信教育部の活動を支え続けてきたのは、通学部生以上に、中央大学法学部への強い「志向性」をもち、ただひたすらに学問しようとする通教生の「熱い意欲」に応えたいと思うからである。学問を求める者と、それに応えて己が学を教授する者、大学教育の原点がそこにあると感じ取っているからである。
もちろん、微細に見れば、通教生の状況にも、変化が見られる。私が、夏のスクーリングで授業を担当するようになったのは、大学院博士課程(単位取得)退学直後の1970年代はじめからであるが、その時期は、現実の世界では、公務員関係を除けば、スクーリング参加のための休暇取得などというのは、認められておらず、スクーリングを受講するために、会社を退職し、その後また、職を得、また1年後は退職するということをくり返した人や、人一倍仕事に励み、ようやくにして、休暇を得て受講できた人がほとんどであり、公務員関係といえども、受講前後の職場で、相当に無理をしてはじめて、受講できたものであった。
したがって、そのような状況下での受講であるから、勉学への意欲は、並大抵のものではなかった。たとえば、講義に、チャイムと同時に講義を始めることなく、たとえ数分たりとも遅れたような場合はもちろん、当初は、恩師と2人で、交代で授業した際、講義内容が、ほんの少しダブッただけで、時間をロスさせてけしからんと、抗議を受けたものであった。現在でも、講義開始時刻に敏感であることに変わりはないとはいうものの、その勉学態度には、どこか、のんびりしたところがある。私が若輩であったというだけでなく、講義の場には、ピーンと張りつめたような緊張感があって、講義内容や水準には、相当に気を遣ったように思われる。金銭的な余裕を含む、受講環境の改善が、学習態度の軟弱化につながっているとしたら、それは、皮肉な話であろう。
近年の大きな変化は、女性の受講者が大幅に増え、時代的状況変化と相まって、卒業論文のテーマにも変化が見られることである。
通信教育では、「卒論」を書き、それが合格して、はじめて、卒業となるものであるが、ほとんどの通教生が職務に従事していることから、卒論テーマに、労働法関係のテーマを選択する学生が多い。その時、そのテーマについては、学生の構成と、時代状況からの影響が大きい。
通教生に、公務員労働者が多く、その運動が隆盛であった1970年代位までは、公務員の労働基本権(その制限・剥奪)問題が大きな割合を占めていたが、70年代後半頃からは、「過労死」問題(それは、現在も少なくないが、一時期から見ると、減少してきている)が、1980年代後半以降は、均等法の制定・施行(1986年)と前記女性学生の増加と相まって、雇用平等問題が、大幅に増加してきて、従来は、女性が労働法の卒論を書くなどということはほとんどなかったのだが、むしろ、女性の学生が大半を占めるに至っている。
私の専門は、労働法領域の中で、「集団的労働関係」といわれる分野で、通信教育においても、教科書の執筆も、スクーリングでの講義も、この分野を担当しているのであるが、その分野での卒論執筆は、ほとんど見られなくなっている。また、講義においても、従来であれば、労働の場を経験している通信教育の学生であってみれば、当然に知己しているはずの事柄が知られていないといった現実に直面している。
それは、わが国において、「労働組合」としての本来の運動が消滅し、それが、もっぱら、企業の侍女と堕してしまっていている現実に負うところがもっぱらである。一方、非正規労働者の問題をはじめとして、労働環境は、悪化する一方である。しかし、労働者一人一人が、そのような労働環境に怒り、自らの努力を以て、それを打破していこうと意欲するものでなければ、労働環境は、したがって、わが国の社会状況は、何ら改善されることはないと思われる。そして、労働者がただ虐げられるだけで、元気がない社会が活性化することはあり得ないであろう、と私は考える。そして、労働者たちのそのような営みを法の側面で、保障するのが労働基本権であると考えられる。
このように考えると、私としては、通教生のスクーリングへの「熱い思い」を、集団的労働関係法の学修に向けて、そこで学んだことをそれぞれの生活の場に持ち帰って、その場の活性化に役立てて欲しいと強く期待するものである。
電力不足に伴う節電の為の冷房温度の切り上げで、教室での厳しい暑さが懸念される中、多摩移転以前、駿河台校舎の大教室に冷房のなっかた時代、通路に氷柱をを立てて勉学に集中していたことを思い出す。温暖化による気温上昇の中、当時と今とを単純に比較することはできないが、「勉学への熱さ」を「力」に切り替えて、学の修得のために今を乗り切っていくことが今われわれに課せられた課題であるように思われる。
最後に、スクーリングに参加した通教生諸君が、体調を崩すことなく、無事、所期の目的を達成し、元気に、それぞれの場に帰っていくこと、そして、その場の活性化のために、活躍してくれることを、心から祈りたい。