田口 善弘 【略歴】
田口 善弘/中央大学理工学部教授
専門分野 物性一般、生体生命情報学
がん、それは日本人の死因の実に1/3を占める病である。だからこそ、その病名を冠した研究所を作ってまで根本的な治療法が希求されている病でもある。わたしは物理学科の、それも計算物理学を専門とする教授であり、本来ならがんの研究などというところからはかなり縁遠いところにいるはずの人間だった。そんなわたしがひょんなことからがんの研究者とがんの研究をすることになったいきさつを今回は紹介してみたい。
筆者が2009年3月から1年間滞在したThe European BioinformaticsInstitute(EBI)。バイオインフォマティクスのメッカで英国ケンブリッジ近郊にあるGenome Campus内にある、この分野では世界でも有数の研究所である。
ことのきっかけはサバティカル(研究休暇)で英国ケンブリッジ近郊の研究所に1年間滞在したことだった。わたしは10年ほど前から、近年進境著しいゲノム科学を情報科学の力で研究するバイオインフォマティクスという分野に興味を抱いていた。だが、滞在先で出会った、最先端の研究をリードしている研究者達は皆、自らラボを運営し、そこで得た実験データを解析することで研究成果をあげている人ばかりだった。一介の理論物理学者にすぎないわたしに、日本に帰国してからそんな研究体制が構築できるわけもないのはあまりにも明らかだった。
彼らとは異なったやり方で、かつ、実験家と緊密に連携して研究できる環境を手にすること、それがわたしにとっての至上命題になった。
そこでわたしが考えたのは当時流行り始めたツィッターを利用することだった。ツィッターはミニブログとも呼ばれるインターネットの新しい情報交換手段で、140字という限られた字数でいろいろ意見をつぶやくツールである。わたしがイギリスから帰国した2010年3月は、それがようやく日本人研究者の間にも普及し始めてた頃合いだった。
わたしはこのツィッターの検索機能を使い「ES細胞」という一般人はあまり口にしそうもない専門用語についてつぶやいている人物を探すことにした。そんな言葉をわざわざツィッターつぶやく様な酔狂な人間はおそらく研究者に違いないと当たりをつけたのだ。ツィッターにはあるキーワードを含むつぶやきを集めてリアルタイムで表示する機能があったのでそれは実に簡単なことだった。ほどなく、わたしはjyasuda1というユーザ名をもつ人物がどうやら実験家で、日々、それらしい研究に関係した内容をつぶやいていることに気づいた。更に好都合なことに、当時僕が興味を持っていたmiRNAによる遺伝子の発現制御にjyasuda1もまた興味を持っているらしいことも解った。わたしはさっそく、ツィッターのダイレクトメッセージという機能を使って、jyasuda1に共同研究の可能性について打診したのだった。
紙面の都合上、それ以降の詳しいいきさつは省くが、こうしてわたしは、がん研究所に勤務する、東北大学COEフェローの安田純博士と知り合ったのだった。ツィッターでつぶやく内容を何ヶ月も読んでいれば、会ったことがなくても、いや、むしろリアルの知り合い以上に、ある意味人となりが理解できる部分もある。そんなツィッターの特質がわたしと安田博士の間をとりもってくれたのだろう。安田博士とわたしの研究は現在、「網羅的解析手法を用いた腫瘍及び細胞分化関連miRNAの生命情報学的同定技術の開発」という題名で、文部科学省科学研究費補助金基盤研究(B)に採用され、(理論物理学者の僕から見ると驚くほど高額な)1700万円もの予算を獲得する研究プロジェクトにまで成長した(3年間、直接経費のみ)。日本広しと言えども、お互いに本名も知らない、一面識もない研究者どうしが、ツィッターを通じて知り合い、これだけの額の研究費を獲得できたのは初めてのことではないかと思う。ツィッターで知り合って結婚するのをツイ婚というらしいが、わたしと安田博士の共同研究はさしづめツイ婚ならぬツイ研と言ったところだろうか?
miRNAはマイクロRNAとも呼ばれ、その名の通り、ごく短いRNAである。ではRNAとはなんだろうか?遺伝情報を記録しているゲノムであるDNAと、実際に機能する遺伝子の実体であるタンパク質をつなぐ、単なる中間媒体だとRNAは長い間、思われていた。だが、つい最近、RNA自身も様々な化学反応を通じて遺伝子の発現を制御する能力をもつ場合があることが判明したのだ。miRNAはその中でも更にごく最近見つかったRNAの一種で、動物の発生や、腫瘍形成の様に、細胞の分化に関わるケースを中心に非常に多くの生物学的な現象に関わることで大いに注目を浴びている存在である。
だが、miRNAは全部で1000種類以上もある上に、それぞれが数百個の遺伝子の発現に影響を与えているために、どのmiRNAがどの遺伝子の発現をどんな場合に制御しているのかがなかなか判らなかった。miRNAが遺伝子の発現を制御する仕組みについての今現在の理解は以下のようなものだ。上述の様に、RNAはゲノムとタンパク質をつなぐ中間媒体である。miRNAは同じRNAでありながら、仲間であるRNAを食べてしまういわば「共食い遺伝子」とでもいうべき存在である。タンパク質になるためにせっかくゲノムから読み出されたRNAが、他のタンパク質の助けを得たmiRNAに食べられて、タンパク質になることなく消えていってしまう。
このmiRNAは実に好き嫌いがはっきりしている分子で、自分の体の一部分である7つの分子と同じ並びを持っているRNAしか食べない。たった7つと思うかもしれないが、俗に塩基と呼ばれるこの分子は4種類あり、全部で4の7乗=16384種類ものRNAを区別する能力を持つ。もっとも、RNAは長い分子なので、たまたまこの7つの並びを一部にもっている可能性は決して少なくなく、そのため、個々のRNAが一個一個のmiRNAのターゲットになる可能性は案外高く、その結果、前述のように個々のmiRNAが数百種類ものRNAを餌食とすることになるのである。
ゲノムからのRNAがコピーされるプロセスそのものを阻害するのではなく、ゲノムからコピーされたRNAが更にタンパク質にコピーされる前に破壊するにすぎないmiRNAの遺伝子発現制御能力は相対的には決して大きくはない。だが、一方で、数百という対象遺伝子の数の多さも相まって、1000種類以上もあるmiRNAは実に多種多様な細胞の作用機構に影響を与えることができる能力を獲得している。
がんとは、つまるところ、遺伝子に異常が起きてしまった遺伝病であり、その遺伝子になるべきRNAを捕食するmiRNAは当然のごとく、細胞ががん化するかしないかにも大きく関わっていると信じられている。もし、ある特定のmiRNAがある特定の種類のがん化のプロセスに深く関わっていることが解れば、このmiRNAをターゲットする薬をつくることでがん化を抑えることができるかもしれない。そして、少数の分子を介してRNAに干渉するというmiRNA特有の機能を逆手にとれば、実はmiRNA自身の作用を抑えることはそんなに難しくはなく、実際、今現在でもmiRNAの機能を停止させる生化学的な手段は存在するのである。あとはどのmiRNAがどのがんの発生に決定的に重要か、それさえ解ればいいのだ。もっともこれは簡単なことではないのだが。
マイクロRNA(miRNA)はループを持つヘアピン状2本鎖RNA(miRNA前駆体)として発現する。miRNA前駆体は細胞質内でタンパク質複合体を形成し、ループ部分の切断と2本鎖の一方の除去によって一本鎖の成熟miRNAとなる。成熟miRNAもタンパク質複合体を形成し細胞質内の標的メッセンジャーRNA(mRNA)結合する。この結合によってmRNAの分解を誘導し、生理機能を発揮する。シード配列は短く、ひとつのmiRNAが100以上もの標的mRNAを発現抑制する。この点に着目して、ある生理現象下でのmRNAの発現変化から、その現象に重要なmiRNAの推定を行うのがMiRaGE法である。
わたしと安田博士は独自にMiRaGE法と名づけた遺伝子の発現パターンからmiRNAの機能を逆推定する手法と、Agilent社のマイクロアレイという最新の非常に高精度な計測手段を組み合わせることでその作用機序に迫りつつある。
いつの日か、miRNAを用いた決定的ながんの治療法が我々の手にならずとも、世界のどこかで開発される日が来ないとも限らない。もし、いつか、そんな日が来たら、そういえば遠い昔にそんな記事をどこかで読んだな、と思い出してもらうことが出来れば、それはわたしと安田博士にとって望外の喜びである。
左側は実験の流れを示す。がん細胞と正常細胞からそれぞれRNAを抽出後、増幅して蛍光試薬によって標識する。標識されたRNAはスライドグラス上に結合している多数のプローブと反応し、配列が相補するとRNAの発現量に応じて蛍光シグナルを発する。右側は、正常組織と癌組織についてアジレント社製アレイを用いて60,000種類の遺伝子について解析したものを例示する。これらの結果をもとに、がんでの遺伝子発現制御異常に貢献するmiRNAをMiRaGE法によって推定する。
MiRaGE法のコア部分のプログラム。簡単なR言語で実装されている。