平成21年(2009)12月、ユーキャン新語・流行語大賞トップテンに、「歴女」という言葉が選ばれた。ウィキペディアによると、「歴女」とは、歴史好きの女性、あるいは、歴史通の女性を指す造語であるという。そしてまた、成功した者よりも不遇の最期を遂げた者が好まれるらしい。筆者が研究する赤報隊の慰霊祭にも、「歴女」含む赤報隊ファンの参列がみうけられる。現在、このような歴史ファンをいかにして集客するかが、まちおこしの鍵となっているようだ。長野県の下諏訪町では、赤報隊慰霊の相楽祭がまちおこしの1つとなっている。
維新の草莽赤報隊
赤報隊は、慶応4年(1868)正月3日からはじまった戊辰戦争に参加した新政府側の先鋒隊の1つである。鳥羽伏見の戦いに勝利した新政府軍は、江戸へ敗走した前将軍徳川慶喜と徳川方を討伐するため、山陰・東海・東山・北陸諸道に、東征軍を派遣した。赤報隊は、薩摩藩士西郷隆盛の指示により、公家の綾小路俊実と滋野井公寿を盟主に据え、近江国愛知郡の松尾山で正月10日に結成された。主な任務は、東征軍進撃に先んじて、各地の情報探索と勤王誘引を行うというものであった。赤報隊は当初3隊編成で、1番隊は江戸赤坂生まれの尊王攘夷志士相楽総三を隊長に、関東の志士たちが中心となった。2番隊は、元新選組の鈴木三樹三郎を隊長に、新選組を離脱した元伊東甲子太郎一派などで構成された。この一派は、2ヶ月前に京都油小路で新選組による伊東暗殺事件が起こると、薩摩藩の庇護を受けて尊王を掲げるようになっていた。3番隊は水口藩士油川錬三郎を隊長に水口藩士らが主となった。相楽は東征が有利に進むようにと年貢軽減を考え、12日に新政府へ建白書を提出し、採用される。東海道軍の先鋒である草莽の赤報隊は、15日に松尾山を出発し、旧幕府領などの各地で「年貢半減」を布告した。しばらくして赤報隊は、進軍経路を相楽の同志が多い東山道(中山道)へと許可なく変更する。赤報隊の行動は、次第に新政府の重荷となり、27日になると「年貢半減」は新政府により撤回され、綾小路俊実に対して同日に父大原重徳は帰洛を命じてきた。これにより、相楽ら以外の2・3番隊は京都へ引き返すが、1番隊は嚮導隊と名を改め(以下も赤報隊と記す)、東山道の進撃を続けた。このような赤報隊の突出した行動は、新政府軍からの粛清の対象となっていく。そして、慶応4年3月3日、相楽ら赤報隊幹部8名は、信濃国の下諏訪で処刑され、その他の隊士も追放刑などに処せられた。
下諏訪町の相楽祭
この相楽らの慰霊の動きは、同年の明治元年(1868)12月からみられ、相楽の旧同志の落合直亮と旧赤報隊士丸山久成が中心となった。落合らは、明治2年5月に相楽の遺稿集を刊行し、その後、相楽ら赤報隊幹部の魁塚(墓)を下諏訪に建立して、翌年6月に魁塚の除幕式と招魂祭を執り行った。また、明治13年(1880)3月3日には、相楽の旧同志で内閣大書記官となっていた金井之恭が下諏訪の来迎寺で13回忌の法要を営んだようだが、それからしばらく下諏訪での慰霊祭は行われなくなる。大正7年(1918)になると、相楽の孫木村亀太郎が下諏訪の有志の協力を得て、相楽らの慰霊祭(以下相楽祭)を再興させる。このとき、旧暦の相楽らの処刑日にあたる4月3日に相楽祭を行った。その後も相楽祭は毎年4月3日に行われ、現在でも下諏訪の恒例行事となっている。
この相楽祭には、関係者のほか、多くの赤報隊ファンも参列している。とくに赤報隊ファンが増えた理由として、和月伸宏『るろうに剣心』(全28巻、集英社、1994~1999、以下『るろ剣』)という漫画の影響があると思われる。登場人物の相楽左之助は、架空の赤報隊士という設定である。『るろ剣』連載中は赤報隊の人気が高く、その時期の相楽祭の参列者は、関係者やファンなど数百人におよんだそうだ。しかしながら、『るろ剣』の連載が終了した近年では、赤報隊の人気は下火となったようで、相楽祭に参列する人は年々減少し、現在では総勢数十名にとどまる。相楽祭の執行や魁塚の管理などを行う相楽会では、こうした現状に対して、「歴女」などの赤報隊ファンをどのように呼び戻すのか模索しているという。1つの案としては、毎年4月3日に行ってきた相楽祭を、来年以降は4月3日に近い土曜日か日曜日(第1週目の土曜日か日曜日、または、第2週目の土曜日か日曜日)の開催に変更するというものである。原則休日開催とすることで相楽祭への参列を促し、ひいては下諏訪町への観光客の増加をも見込んでのことである。
筆者は、こうした地域の企画をバックアップし、いわゆる「産学連携」でまちおこしをすすめていくことは重要なように思う。産学連携というと、理系などの研究開発をイメージしがちたが、歴史ももちろん可能である。平成20年(2008)4月3日、下諏訪町では相楽会を中心に相楽140年祭記念講演会が催された。ここで筆者も研究報告をしたことがあるが、講演会では地域住民からの質問や指摘、新たな史料情報の提供をうけた。こうした情報に基づいて、筆者は現在新たな研究活動をすすめている。地域のイベントに積極的に参加することで、大学内では得られない新たな地域の史料情報などを得、研究活動にさらなる広がりを持たせることができる。まちと歴史研究者が連携することで新たな史実が構築でき、それが再び映画やドラマ、漫画などのブーム要因の素材となれば、さらなるまちおこしへとつながっていくだろう。大河ドラマなどで有名になった坂本竜馬の出身地である高知県、新選組副長土方歳三の出身地である日野市、司馬遼太郎『坂の上の雲』の舞台愛媛県松山市などは、歴史を中心としたまちづくりをしており、それはまちおこしの良い例のように思われる。
筆者が所属する中央大学大学院文学研究科で開講されている、松尾正人教授の政治史特殊研究(ゼミナール)では、今年度、地域などに残された「私文書の研究」をテーマに研究報告会が進められている。筆者もまちおこしへとつながる成果が残せるよう、地域の私文書を活用した研究を頑張っていきたい。