伊賀上 菜穂 【略歴】
伊賀上 菜穂/中央大学総合政策学部准教授
専門分野 文化人類学(民族学)、ロシア史
雑誌「セーヴェル」
極東におけるロシア人と日本人との関係を問う雑誌『セーヴェル』(ハルビン・ウラジオストクを語る会)に参加しています。
わたしはロシア、特にシベリア(極東地域も含む)を対象に文化人類学(民族学)や歴史学の研究をおこなっています。特に注目しているのは農村に住む「ロシア人(ロシア民族)」です。ソ連時代は外国人が農村を訪問することは困難でしたが、今では現地に滞在して聞き取り調査等を実施することも可能となりました。それでも外国人による農村現地調査は、まだ珍しい部類に入ります。
ところが約80年も前に、ロシア人の村で日本人による大規模な調査が実施されたことがありました。しかもそれらの村では映画撮影もされ、『婦人画報』のような一般誌にも関連記事が掲載されました。ただしこれは当時のソ連領内のことではありません。調査された村は中国東北部、つまり1931年の満洲事変の後に「建国」された日本の傀儡国家、「満洲国」にありました。
わたしがシベリアの領域をこえて、隣接する「満洲」にも注目するようになって5年以上になります。そのあいだに日本、ロシア、中国、カナダ、アメリカ、オーストラリアの研究者や協力者の方々とコンタクトをとりながら、調査を続けてきました。
今回は「満洲」に住んでいたロシア人農民と日本人の特殊な「出会い」を紹介することで、忘れられつつある日中ロ関係の一頁についてお話ししたいと思います。
19世紀末にロシア帝国が清国から東清(中東)鉄道の敷設権を獲得して以降、中国東北部には鉄道沿線を中心に多くの人々がロシアから流入しました。その後1917年のロシア革命、1931年の満洲事変と、この地域の支配関係が一転する出来事が続くなか、多くのロシア系住民が中国東北部を去る一方、新たにソ連領からこの地へ逃れてくる人々もありました。結果として1930年代から1945年までのあいだ、「満洲国」の領域には約6万人の旧ロシア帝国出身者が住んでいました。当時彼らは「白系露人」「無国籍人」「エミグラント」などと呼ばれていましたが、ここでは「亡命ロシア人」と総称することにします。
「満洲国」時代、亡命ロシア人の半数以上は現在の中国黒龍江省の省都であるハルビン(哈爾濱)に住んでいました。ハルビンは鉄道建設の中心地としてロシア人によって開発された、ロシア風の街でした。旧満洲のロシア人というと、今でもキャバレーの踊り子や歌手、デカダンス(退廃)、エログロというイメージが付きまといますが、これはハルビンという都市の生活、特にロシア革命後に亡命ロシア人が置かれた窮乏を反映したものです。
しかし「満洲国」の亡命ロシア人には、都市住民ばかりではなく、農村住民もいました。彼らの暮らしはハルビンのモダンさとはほど遠いものでしたが、当時の日本人はまさにその農耕生活に注目していました。つまり、満蒙開拓政策のなかで日本人農民を大陸に送りこもうとしていた日本にとって、ロシア人農民の暮らし方が寒冷地適応のモデルになると考えられたのです。
『旧「満州」ロシア人村の人々』表紙
ロマノフカ村の人々は古風な服装を保持していることで有名でした。
農村ロシア人に対する当時の日本人の関心は、2つの地域に集中していました。一つは牡丹江市に近い横道河子駅から少し離れたところにあった「ロマノフカ村」(現黒龍江省)、もう一つは現在の内蒙古自治区北部にあたるホロンバイル(呼倫貝爾)地方のコサック(ロシア語では「カザーク」)農村地帯です。ロマノフカ村は1936年に築かれた村で、人口も150人程度でした。これに対して三河コサック農村地帯は1920年代から発展しはじめ、1940年代になると20村以上の部落に1万人近くが暮らす穀倉地帯になっていました。
このように両地域はその場所も規模も大きく異なるのですが、その住民たちもふつうのロシア人農民ではありませんでした。ロマノフカ村の住民は、ロシア正教の一派である古儀式派に属していました。古儀式派とは17世紀にロシア正教会で実施された典礼改革を認めないグループです。ロマノフカ村やその周辺の古儀式派村を築いたのは、日本海に面したロシア極東南部(ウラジオストク市付近)から逃れてきた人々でした。
内蒙古自治区上庫里村(旧三河地方ヴェルフクリー村)に現存するロシア家屋(2006年撮影)。
一方、三河地方のコサック農民の多くは、ロシアのザバイカル地方(バイカル湖の南東部)の出身でした。コサックとはロシア帝国の特殊な軍務身分です。騎馬戦法に秀でており、日露戦争でもその存在が恐れられましたが、実は平時にはその多くが農業に従事していました。ロシア革命後の内戦では多数のコサックが反革命側(白軍)についたため、ソヴィエト政権の樹立後は彼らの亡命があいつぎました。「満洲国」では、アタマン・セミョーノフ(シベリア出兵時、および満洲国時代に日本と協力関係にあった人物)のように都市や都市近郊に住むコサックも相当数いましたが、三河地方はコサックの集住地として有名でした。
ダンスを楽しむコサックの若者たち(『写真週報』53号(内閣情報部、1939年)より)。
当時の日本語資料を見ると、これほどまでに異なる2つの集団に対してほぼ同等の関心が寄せられていることがわかります(ちなみに亡命ロシア人のあいだでは、ロマノフカ村の知名度は高くありませんでした)。両集団が選ばれた最大の理由は、彼らが移住して間もなく生活を再建したこと、つまり移民としての適応能力の高さにありました。
1930年代から1945年8月までのあいだ、ロマノフカ村と三河地方では日本人による数多くの調査が実施されています。調査の主体は当時の満鉄(南満洲鉄道株式会社)の諸機関や、労働科学研究所の支部(開拓科学研究所)など、さまざまでした。農村経済調査を目的とするものが多いなか、東京帝国大学医学部による結核調査(三河地方)のようなものもありました。当時の調査報告書を見ると、家の構造、家畜の飼い方、食物の種類から料理の仕方、余暇の配分やその過ごし方まで、きわめて詳細に調査されていることに驚かされます。2つの地域は雑誌等でも再三紹介され、小説や絵の題材にもなりました。当時満映(満洲映画協会)が撮影したドキュメンタリー映画のうち、「三河」(1939年撮影)は現在でも見ることができます。
こうして両地域は、一般の日本人にも知られるようになっていきました。特に、ハルビンや新京(現長春)からのアクセスがよかったロマノフカ村には多くの訪問団が訪れ、一時はほとんど観光地のように扱われました。三河地方はソ連との国境地帯であったために一般人の訪問が制限されていましたが、ここでは三河共同農村および満蒙開拓義勇軍が、コサックから学んだロシア式の生活と農業を実施しました。
しかしこれらの地域でも、日本人とロシア人との関係は「民族協和」という麗しいスローガンどおりだったわけではありません。両地域の青年たちは白系露人部隊や警察官として徴用されましたし、第二次世界大戦期には物資や労働力の供出が義務付けられました。さらに三河地方では、ソ連スパイの容疑で大規模な冤罪事件も起こりました。そして1945年8月にソ連軍が侵攻してきたときには、両地域の成人男性の多くが日本への協力という容疑で逮捕され、ソ連へと連行されました。残された人々も1950年代には中国を離れ、ソ連、オーストラリア、ブラジル、アメリカなどへ移住していきました。
三河コサック家屋断面図(満鉄調査部(北満経済調査所)編『北満三河露人の住宅と生活』(博文館、1943)より)。
ロシアハバロフスク地方の古儀式派村(2005年撮影)。
ロマノフカ村と三河コサック村については、すでに世界中で多くの証言、研究が著わされていますが、不明な点も数多く残されています。現在わたしは日ロの資料を用いて、当時両地域の人々が置かれていた状況を確認するとともに、旧住民とその子孫たちにインタビューをおこなっています。三河地方農村についてはまだ情報を収集している段階ですが、ロマノフカ村および周辺の古儀式派村については、旧住民が中心となって開いた村々を、ロシアとアラスカに訪ねることができました。1945年8月以降、彼らが経験した歳月からは、激動の時代を生きた人々の苦悩とたくましさを知ることができます。
ところで、ロマノフカ村の旧住民およびその子孫たちの生活には、いまでも日本との接点が見られます。ロシア極東は日本からの中古車輸入が盛んであるため、古儀式派教徒の村でも日本の中古車が愛用されています。またアラスカへ移住した古儀式派教徒たちの多くは北太平洋漁業に従事していますが、彼らが獲ったタラやサケは、日本にも輸出されているそうです。日本人と彼らの関係は形を変えて続いているのです。