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渡部 芳紀

渡部 芳紀 【略歴

教養講座

太宰治とその文学の魅力

渡部 芳紀/中央大学文学部教授
専門分野 近代文学

太宰の作家としての基本姿勢

 太宰の作家としての基本姿勢は、〈タンポポの花一輪の贈り物〉(「葉桜と魔笛」)のような、ささやかな心の幸せを、道行く人達(読者)に楽しんでもらう〈辻音楽師〉(「鴎」「善蔵を思ふ」)のような作家でありたいというものであった。

〈心の王者〉

太宰治記念館(生家)「斜陽館」(撮影:渡部芳紀)

 青森で四番目の資産家の家に生まれ、物質的な豊かさの中で育ちながら本当の幸せを実感できなかった太宰は、次第に物質的幸せよりも心の幸せこそ真の幸せであると思うようになり、それを文学の中に求めていった。

 慶応義塾の「三田新聞」に載せた「心の王者」で、慶応の応援歌の結びの句〈陸の王者、慶応~〉をもじって、学生達に〈心の王者〉たれと語りかける。富と権力の頂点を極める「地上の王者」であるより「心の幸せ」を第一とする〈心の王者〉であれというのである。

 そうした基本姿勢のもと、太宰は、「黄金風景」「I can speak」「新樹の言葉」「老(アルト)ハイデルベルヒ」など優しい人間味のあふれた珠玉の作品を生み出したのである。

太宰文学のもつ優しさ

 (太宰は、小説「津軽」で、自分の〈専門科目〉は〈人の心と人の心の触れ合いを研究する〉〈愛〉という〈科目〉だと言っている。)太宰文学のもつ優しさは、どこから発しているのであろうか。それは、太宰文学の根底にある「罪の自覚」からである。

 戦後の作品「春の枯葉」(戯曲形式)の登場人物野中は、次のように言う。

聖書にこれあり、赦さるる事の少き者は、その愛する事もまた少し。この意味がわかるか。間違いをした事がないという自信を持っている奴に限って薄情だという事さ。罪多き者はその愛深し。

 これは、罪を沢山犯したものが誰でも愛情深い人間になるという事ではない。罪を犯してしまい、罪を深く自覚した者は、謙虚で優しく〈愛情厚い〉人となるというのである。

 太宰自身、ブルジョアの家の一員として肩身の狭い思いを抱き、許嫁がいたのに別の女性と心中して相手を死なせてしまい(昭和五年十一月)、大学に入って、一時左翼運動に関わったが仲間を裏切って離脱(昭和七年夏)というように、人を裏切ったり傷つけたり数々の罪を重ねてきた。太宰の中に、自分は駄目な奴だ、罪深い人間だという深い自覚があった。それが、太宰と太宰文学の持つ優しさの根底にあるのである。

〈愛〉〈優しさ〉のあふれた文学は、特に中期と言われる昭和十四年から二十年にかけて多く生まれた。

「富岳百景」の舞台御坂峠よりみた富士山(撮影:渡部芳紀)

 この頃の、太宰の作品には、〈単純〉〈素朴〉(「愛と美について」「花燭」)、〈正直〉(「当選の日」「正直ノート」)、〈自然になりたい。素直になりたい〉(「女生徒」)、〈素朴な、自然のもの、従って簡潔な鮮明なもの〉(「富嶽百景」)といった言葉が繰り返される。当時の太宰が目指していたものが伺われる。

 その志向は、昭和十七年頃、弟子の桂英澄に語ったという次の言葉に集約されている。

 芭蕉は、わび、さび、しおりといっただろ。最後に、「軽み」ということをいったんだ。新しい芸術の進む方向は、この軽みだよ。剣道でいうと、力まずにぽんときれいにお籠手をとる。あの感覚だね、苦悩が下に沈んで、澄んでるんだ。(中略)音楽でいえば、モツァルトじゃないかな。(太宰治の言葉・桂英澄「箱根の太宰治」)

 この、昭和十四年から二十年へと育まれてきた〈かるみ〉の理想は、戦後発表された「パンドラの匣」で開花結実する。戦後の新しい時代を迎えた主人公の青年は言う、

 あたらしい時代は、たしかに来ている。それは羽衣のように軽くて、しかも白砂の上をさらさら走り流れる小川のように清冽(注―清らかに澄んで冷たい)なものだ。

 軽くて清潔な詩(中略)たとえば、モオツアルトの音楽みたいに、軽快で、そうして気高く澄んでいる芸術を、僕たちは、いま求めているんです。

 この「かるみ」は、断じて軽薄とは違うのである。欲と命を捨てなければ、この心境はわからない。(中略)すべてを失い、すべてを捨てた者の平安こそ、その「かるみ」だ。(「パンドラの匣」)

 「パンドラの匣」で、太宰は、〈すべてを失い、すべてを捨てた者の平安〉〈何もかもあきらめ捨てた〉〈正直〉で、〈単純〉な、〈冷たく澄んだ〉心境と〈軽快〉な精神を理想として掲げたのである。

 こうした健康で明るい太宰とその文学は、多くの人たちに、今まで抱いていた太宰治のイメージとのギャップを感じさせるだろう。しかし、太宰治の十六年間の作家生活の四分の三近くの期間は、明るい健康な上昇志向の文学を多く書いているのである。

太宰の文学観(文学とは何か)

蟹田の太宰文学碑「かれは、人を喜ばせるのが、何よりも好きであった!」(撮影:渡部芳紀)

 太宰治にとって文学は基本的に、〈僕の芸術は、おもちゃの持つ美しさと寸分異なるところがない〉「もの思ふ葦(その一)」、〈やさしくて、かなしくて、おかしくて、気高くて、他に何が要るのでしょう。〉(「『晩年』に就いて」)、〈千代紙貼リマゼ、キレイナ小箱、コレ、何スルノ?ナンニモシナイ、コレダケノモノ、キレイデショ?〉(「走ラヌ名馬」)、〈芸術の美は所詮、市民への奉仕の美である。〉(「逆行」)、〈「かれは、人を喜ばせるのが、何よりも好きであった!」〉(「正義と微笑」)、〈日本文学は、(中略)ユウモレスクなるものと遠い。(中略)無為に享楽する法を知らぬ。やたらに深刻をよろこぶ。ナンセンスの美しさを知らぬ。〉(「古典竜頭蛇尾」)、〈文学に於いて、最も大事なものは、「心づくし」というものである。〉(「如是我聞」)といった発言に表れているように、読者を楽しませ、慰め、笑わせ、喜んでもらい、心の糧として心の幸せを感じてもらえれば良いのである。

難解(ダンディズム)・退廃(デカダンス)

 こんなに、楽しく、明るく、健康な作品を沢山書いているのに、彼とその文学から難解さと退廃的で不健康な暗いイメージがぬぐいきれないのは、ダンディズムという前期の文学の方法と、晩年のデカダンスな反俗的なイメージの強烈さ、とに依っている。

 太宰の前期(昭和八年から十二年)、特に、昭和十年から十二年初め頃はダンディズムという方法をとりいれ、きわめて難解な作風を示した。ボードレールのダンディズムの影響を受けた太宰は、人がお洒落をするように、文学と生活を飾り立てた。飾ること、お洒落をすることが作者の読者への〈心づくし〉と考えたのである。

 〈理知で切りきざんだ工合いの芸でなければ面白くないのです。〉(「ダス・ゲマイネ」)、〈人工の美、〉(「もの思ふ葦〔その一〕」)、〈人工の極致〉(「虚構の春」)と言った言葉に示される極めて人工的な世界である。その作者の努力の跡に作者の誠意を示そうとしたのである。

太宰のふるさと金木から見た岩木山(撮影:渡部芳紀)

 このダンディズムを象徴的に表す言葉が、〈「死ぬるとも、巧言令色であれ!」〉(「もの思ふ葦(その一)」)である。孔子が、徳が足りぬとした、巧言令色を、太宰は〈「心づくし」〉の表れとしたのである。作品と文体に工夫を凝らし、生活を飾り立てる中に作者の読者への愛を示したのである。わざと難解に書き、混乱を演じ、悪を気取ったのである。

 そういう難解で斬新な表現が世の誤解を招き、第一回の芥川賞を逃し、パビナール中毒になり、先輩や友人家族の手でだまされるようにして入院させられる。

 そうした、ダンディズムの方法を駆使した難解な作品群も、作者がわざと難解に書き、特異な表現を使ったのだ、そこに作者の個性を、新しさを、誠意を見せようとしたのだ

 と思って読むと意外と面白く読める。煌くような言葉の魔術の世界を楽しむことが出来る。

戦後の強烈な反俗精神(昭和二十一年~二十三年六月)

太宰治文学碑(撮影:渡部芳紀)

 疎開生活から東京に戻った太宰は、自分と同じように左翼運動から脱落して転向し、戦時下では自分と違い国策に協力していた文化人たちが、臆面も無く戦後民主主義に便乗する姿を見て我慢できなくなる。彼らには転向し、国策に同調したという恥ずべきことに、なんら反省も罪の自覚も無い。罪の自覚を持った自分のほうが、そんな連中よりましなのではないか。晩年の一年半の強烈な反俗精神はそうした自信から生まれてくる。世の俗物的文化人たちを強烈に批判していくのである。その批判を逆説的に、退廃的なデカダンスの形を借りて糾弾したのである。その姿が強烈で深く読者の印象に残り、世間一般の太宰像につながっているのである。

 一部の太宰だけでなく、総合的な太宰を知ってほしい。 若い頃は、ダンディズムを駆使した難しいが個性的な独自の人工の美の世界を描き、中期は、罪の自覚のもと、謙虚で優しく、人間の愛の世界を、明るく健康的にユーモアをこめて描いた。太宰のそうした明るい味わいのある作品も手にしてほしいものである。

まとめ

 二十世紀は、物つくりに専念した世紀だった。二十一世紀は、物つくりで忘れられた心の幸せを目指す世紀であろう。〈タンポポの花一輪〉のようなささやかな慰めを読者に捧げ、〈辻音楽師〉のような芸術家でありたいと願い、物質的幸せよりも、心の幸せを大事にし、〈心の王者〉たらんとした太宰は、二十一世紀の心の幸せの時代を先取りしていた。

『渡部芳紀 研究紹介』(PDFファイル)新規ウインドウ

渡部 芳紀(わたべ・よしのり)/中央大学文学部教授
専門分野 近代文学
1940年、東京新宿四谷に生まれる。町田育ち。町田小学校、練馬区開進第一小学校を経て教育大付属中高から東大文学部国文科に進む。大学院をへて、私立武蔵中高、立正大学を経て1976年より中央大学文学部に勤め現在に至る。この間、青山学院女子短大、学習院女子短大、聖心女子大でも講師を務める。近代文学、特に、太宰治、宮沢賢治を得意とし、梶井基次郎、芹沢光治良、萩原朔太郎をはじめ近代詩人に興味を示し研究を進めている。写真と車が好きで、日本中を回り近代作家と風土との関わりを探る。