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宮丸 裕二

宮丸 裕二 【略歴

教養講座

家庭中心主義の現代

宮丸 裕二/中央大学法学部准教授
専門分野 英国文学・文化

「家族が大事」な社会

 人並み外れたお節介教師である私は、学生に対して「何のために大学に来て勉強をしているのか」を問うことが多い。「自分自身の将来のため」、「日本や国際社会に貢献するため」、「特に目的はない」という答えを凌いで最も多いのが「家族のため」というものである。「学費を出してくれている親にはいつか必ずや恩返しをしたい」、「自分の将来の家族をしっかりと守れるような人間になるため」と、未来志向のものを含めて、大半は自分が属する家庭への貢献を理由として挙げる。泣かせるではないか。「家族的情味」をモットーの一つとする中央大学の面目躍如である。

 単に教師に訊かれてやむなく響きの良い答えを選んで答えているだけだろうというシニカルな意見もあろうし、それだけの立派なことを口にするからにはもっと大学生は勉強熱心であってもいいはずだろうとのお説教めいた声も聞かれるかも知れない。それでも、多くの大学生が、理想も含めて、これを悪くない答えだと考えていることだけは確かであろう。

 学生だけではない。大人の社会を見渡しても、生きる最終的な目的を家族に置いている人は過半数を占めるのではないだろうか。人が生きる目的や幸せは家庭にあるはずだというのは、当たり前過ぎて問題にもならないほど普遍的な理解となっている。十数年前までに多かった、過剰な労働の時代の餌食となってマイホームパパと呼ばれることに失敗した人々にしても、家庭内に不幸せな事情を抱えている人々にしても、その理想とするところに関してはさして違いは見られない。

 広い現代社会に参加したように見えてその心は家族の中にありという人生観は日本特有の村社会を起源とするものだろうか。それもあるかも知れないが、村だってまた社会である。家庭重視やマイホーム主義は日本に留まらず、世界中に見られる傾向である。この家庭中心の考え方は、実は歴史的に振り返ると、本来そう普遍的なものでもなかったことが見えてくる。

ディケンズ『クリスマス・キャロル』に見る「人生で大事なこと」

 現在の世界に共通となっている価値観は、かなりのものが起源を19世紀イギリスにさかのぼる。近代国家の牽引役を務め、また帝国主義をもって覇権を広げたヴィクトリア朝期イギリスは、文化的にも今日の世界に強く影響しているし、その王朝がちょうど栄華を極めるタイミングで開国をした日本も、多くの価値基準をここから取り入れている。それも、最初に大規模に出会った西洋世界であるだけに、時には他国にも増して普遍的なものとして取り入れているのである。

 チャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』という小説は、1843年に出版され、まさにこの時代のイギリスでベストセラーとなった作品である。この作品は、今も読まれ、繰り返し映像化されているので、話の筋をご存じの方も多いだろう。金のことしか頭にないスクルージは、稀代のケチであるが故に経済的には成功しているが、自分のことしか頭にないガリガリ亡者である。街の人々には毛嫌いされ、犬さえも寄りつかない。

 三人の精霊が訪れたことをきっかけに、スクルージは一夜にして改心する。その原因として決して小さくないのが、スクルージの会計事務所で働く事務員であるボブ・クラチットの家庭の様子を、精霊がスクルージに見せたことである。クラチットは、妻と多くの子どもを抱え、スクルージが毎週払う給金では決して余裕はないが、つましくも笑いの絶えない幸せな生活を営んでいる。末っ子のティムは脚に障害を負っているが、家族が仲良く助け合い、それを物ともせずに活き活きと暮らしているのである。スクルージは、「人が飢え死にしても人口が減って結構」というのが持論だが、ティムの容態を心配し始める。クラチットの家庭を覗き見たことが、人の幸せとは一体何かということをスクルージ、そして読者に考えさせるきっかけとなっているのである。

家庭中心主義の台頭

 スクルージに代表される自由競争主義的思想と並んで、ここには時代の主流となって出てきたもう一つの価値観を見ることができる。それが、家庭中心主義である。この時代までに小説は幾多書かれているが、家庭を最終的な心のよりどころとする描かれ方をする小説は実はほとんどないのである。互いに愛し合う家族が登場することは少なくないが、決して生活の根本的な目的や支えとして、あるいは普遍的な価値として描かれてきたわけではないのだ。事実、自分の家庭を自らの存在理由と捉える潮流は、いよいよ台頭する中産階級が持ち込んだものであることは、絵画においても中産階級の家庭の団欒を描くものがヴィクトリア朝期に急激に増えたことを見ても明らかである。

 そもそも上流階級において中産階級が考える家族の団欒はなく、例えば夫婦関係は、愛情や貞操も含めて中産階級ほど緊密なものであるとは言えない。子どもは親ではなく乳母に育てられ、幼少時に寄宿舎学校へ送られて個人として立つことを求められるし、家の中でも将来を見据えた個人としての役割を重視され、個人としての社交を期待されるのである。親子の関係においても家族の継承者としての役割が第一である。また中産階級が別の価値観を普及させてみたところで、それを変えようとしないのがまさに上流階級なのである。イギリスの王室が家族の集合でメディアに現れるというあり方も、上流階級の中でも王室だけに例外的なことで、これもまた君主が中産階級化したヴィクトリア女王の時代に始まったことなのである。

 逆に労働者階級であるが、男は男の世界、女は女の世界と性的役割区分に実はうるさいことからも、中産階級的な家族団欒からはもともとかけ離れた価値を持っていたし、今現在でもかなりの程度までそうである。

 新しく社会参加した中産階級は、核家族化を進め、社交や地域的つながりを欠いたことを原因に、家族の関係を緊密にした。そして、家庭中心主義の進行において特徴的なのは、ついこの間まで労働者階級に属していたが社会的な立場を上昇させて一つ上の階級に仲間入りを果たした下層中産階級(ロウワー・ミドル・クラス)が急激に社会に増えたことである。かろうじて肉体労働ではなく事務職に従事する、まさにボブ・クラチットのような存在がこれである。もはや労働者階級ではないことを世間や自分に証明する上で何より重要なのは、中産階級の道徳観や価値観を自らのものとして取り込んで体現することであった。以前より経済的に潤い、余暇という時間を新たに持つに至って、それを過ごす場として、家庭がそれまでよりも重要な役割のものとして捉えられるようになる。やがて、暮らしにまつわるあらゆることは、最終的には家庭を守るため、家庭に戻って幸せを実感するためという信条を、我が物として定着させるのである。

 ディケンズが人間の幸せの縮図としてクラチットの家を示した背景には、ディケンズ本人が、大きな成功によって階級を大きく移動するも、元々は下層中産階級の家庭の出身であったことが大きく関係している。

家庭中心主義の功罪

 家族こそは社会の最小単位であると我々は学校で習うが、本当にそうだろうか。本来、社会の最小単位は個人であろうし、我々は実際の社会生活は家族以外のいろいろな集団に顔を出している。あらゆる生活の中で、どの集団を最重要視するのか、どの集団を心の最終的なよりどころとするのか。これに家族という集団が選ばれることは、時代や国を超えて普遍的と思われるかも知れないが、実はそうではない。「家族は社会の最小単位」という教科書の記述も、今日世界中に広まった中産階級的価値観が社会学や教育に影響した結果としての、一つの「教え」であろう。中央大学の創立からかなり経ってから付け加えられたそのモットーにも、同じ影響を見ることはできるかも知れない。

 家庭中心主義の効用は大きく、一つには、多くの人に心の基盤を与えてくれるということがある。社会階級や経済力、その他の事情によらず、その人に家族さえあるならば、家族の元に帰ることを楽しみに、家族のために苦労して働くことができる。このという考え方をもって生きるという選択肢は、かなり多くの人に開かれていて、人々を大いに救ってくれるのである。

 他方で、家庭中心主義の弊害を言えば、過度の利己主義を促した側面は否定できないだろう。家族が目的となったとき、家族以外のものが手段化することである。ある家族の構成員であるという以外の役割や責任も、この世の中には割と沢山あることを忘れさせることがあるのだ。

 また、家庭中心主義のもう一つの危険として、この幸せしか想像できなくなる時、この枠に当てはまらない場合の他人の幸せを排除しかねず、あるいは自分の幸せを否定しかねないこともあろう。日本社会が経ている大きな構造上の急変から、今後は結婚しない人も家族を持たない人も増えるであろう中、家庭中心主義的人生だけをモデルとして仰いでいることは、即ち大きなリスクを抱えることなのではないだろうか。

 そして、家庭中心主義が当然のものとして根付いている現代には考えることも難しくなっているかも知れないが、人の喜びや幸せは、必ずしもクラチット家のような家庭を持つことだけにあるのでもない。例えば、家族以外の人との交流に充実感を感じることもあるだろうし、家族に制限されない広い世界にどのように貢献できるかという充実もあって良いし、そう期待されることもまた人の直接的な喜びになり得るはずである。上流階級に見た自分の家系やその基盤たる資産の維持や、社交に通じて社会を牽引していく役割にしてもそうであるし、労働者階級の同業交流も家庭の団欒とは別種の人生の楽しみであると言えよう。

 人にとって家族が最も快適な場所であり得るということは、今に始まったことはないにしても、現在がこれを一つの傾向に推し進めた家庭中心主義の時代であることはどこかで意識されていて良いだろう。特に私の関心の第一である大学生においては、家族のことを思いやる片方で、自分が社会の中でどういう役割を担い、家族以外では何に貢献し得るのかということ、そのためにはどういう勉学や蓄積が必要であるのかを考える部分を残しておいてもらえたらと思うのである。

宮丸 裕二(みやまる・ゆうじ)/中央大学法学部准教授
専門分野 英国文学・文化
1971年生まれ。神奈川県出身。1995年慶應義塾大学文学部卒業。2005年より中央大学法学部専任講師、助教授を経て、現職。専門分野は英国文学・文化。特に19世紀英国の小説文学・伝記文学・自伝文学を研究対象としている。