中川 洋一郎 【略歴】
中川 洋一郎/中央大学経済学部教授
専門分野 フランス現代経済史
中央大学商学部は、今年(平成21年)、創立100周年を迎えている(商学部100周年記念ページ)。その記念行事の一環として、日本の社会・経済研究において世界的に著名なロナルド・ドーア教授(ロンドン大学名誉教授)による講演が、先日(11月7日)行われた。
ドーア教授は、「日本の近代化:戦後の民主化から構造改革まで」と題するこの講演において、資本主義にはいくつもの多様な形態があり、アングロ・サクソン型の資本主義は市場志向型だ。それに対して、日本型資本主義は、市場志向と言うよりは、「総じて言えば、組織志向だ」と語った。世界経済の発展のありさまは、あたかも一本道を全ランナーが走るマラソンレースのようであり、先頭ランナーのアングロ・サクソン型の資本主義が世界を席巻し、やがては世界中の資本主義がそれに収斂してくるという「マラソン歴史観」がある。ドーア教授は、過去の業績において、日本型資本主義の性格を明らかにし、その存在を強調することで、かかる「マラソン歴史観」に果敢に挑戦してきたのである。
しかし、1990年代のバブル崩壊以降、日本の企業を取り巻く環境は大きく変わった。「企業は誰のものか」という問いかけに対して、従業員主権から株主主権へ。成果主義という旗印の下に、経営者に厚く、一般従業員に薄い所得分配へ。業績重視という株式市場からの圧力を受けて、内部留保・研究開発費の重視から配当重視へ。すなわち、ドーア教授が見るところ、日本の資本主義は、過去20年間において、それまでの「組織志向」から、露骨に利益を追い求めるアングロ・サクソン型へ大きく舵を切った。
もし、日本型資本主義がアングロ・サクソン型にすり寄ったのだとしたら、世界にはさまざまな資本主義が存在するという「資本主義多様性論」が大きく揺らいだことになる。ドーア教授が講演の最後で、「私は一生をかけてマラソン歴史観と戦ってきましたが、どうやら負けたようです」と締めくくったのが、印象的であった。
では、「各国の資本主義はやがてアングロ・サクソン型の資本主義に収斂する」という「マラソン歴史観」は、そんなに手堅いのか。
平成20(2008)年9月に、アメリカでサブプライムローンが破綻して以降、世界中で株価や地価は低迷し、成長率も減速した。世界経済は不況に陥った。グローバルな資本主義・市場主義の欠陥が露呈した。大量の資金が世界中を駆け巡り、投機市場に費やされて、非生産的な分野に投資されている。その結果、一部の人々に巨額の収益をもたらす一方で、大量の低所得者を生んでいる。市場に対する信頼が大きく損なわれている。
では、代替案として、社会主義的な経済統制はどうか。しかし、それに纏わる悲惨な記憶がまだ生々しい。レーニンがロシアで権力を掌握したのは、1917年であった。それ以来の共産党による一党独裁体制の歴史は、人類の歴史に惨たらしい爪痕を残した。
ベルリンの壁が崩壊したのは、1989年。わずか20年前である。その後、東ヨーロッパの諸国が相継いで社会主義体制を放棄した。1991年には、ソビエト連邦自体が崩壊し、ヨーロッパでは社会主義体制はほぼ消滅した。
「おごるな、資本主義!」とか、「横暴な市場主義反対!」などのスローガンとともに、陰に陽に社会主義の復活をめざすかけ声は、これからも囁かれるであろう。しかし、少なくとも一党独裁をイメージさせるような統制経済が復活することはありえない。世界経済には、何らかの新しいルールが必要であり、やがて規制をかけるようなルールが成立するであろう。しかし、市場に代替するような少数のエリートが一元的に管理する組織・体制は、今のところ構想できない。 リーマン・ショック以降、市場がこれほど大きく揺れているのに、市場経済を廃棄して社会主義へ戻ろうという声は(少なくとも明示的には)全く聞こえてこない。一元的な統制経済ではなく、自由な市場という基本的な枠組みを維持しつつ、せいぜい規制をかけて、行き過ぎを抑えるという微調整を行ってゆくのだろう。
そうである以上、当面、競争がますます激化するほかない。競争は国内だけでなく、地球的規模で行われている。競争がグローバル化したのだから、競争相手は、国内企業だけでなく、海外企業も含まれる。国内だけを対象としてきた企業も、いつの間にか海外からの競争にさらされてしまう。
メーカーなどの生産者は、当然、自分のイニシアティブで、販売価格を決めたい。メーカー自身のイニシアティブに任されている場合、原材料費・部品費、労務費、一般経費などの総コストに、適切な利益を加算して、販売価格を決める。しかし、今や世界的規模で見て、供給過剰なのである。競争が恒常的に激化すると、値段は低下傾向になる。デフレの恐怖。生産者にとっては辛い日々が続く。
競争のない平穏な世界から、競争が支配的な世界への移行は、生産者にとって、恐ろしい事態を招来する。その商品が売れる価格、すなわち、適正な価格(と、適正な利益)は、もはや生産者が決めることはできない。生産者(メーカー)は、コストに利益を加算して、自分のイニシアティブで販売価格を決定できなくなる。誰が決めるのか。市場である。その商品が実際に売れた価格が「適正な価格」となる。
「売れた値段こそが、適正な価格だ」という考えを否定する経済学者もいるだろう。しかし、競争に揉まれてきた優秀な日本人経営者なら、首肯するに違いない。すでに30年以上も前に、大野耐一(トヨタ生産方式の創始者)が「商品の値段は生産者が決めるのではない。お客様が決める」と言っていた。かかる哲学を、現場での経験を通じて練り上げてきたのが、トヨタ生産システムである。すなわち、日本の製造業は、早くから今日のような競争のグローバル化に備えてきた。
競争のグローバル化が最も顕著なのが、家電や自動車などの耐久消費財産業である。日本も、オイルショック前は、「集中豪雨的輸出」などと批判されたように、耐久消費財が代表的な輸出品目であった。耐久消費財は一般大衆を相手にするので、どうしても輸出先で目立ってしまう。
耐久消費財の生産には、たいていの場合、最終組み立て工程で大量の人手が必要である。だからこそ、低賃金国がこの分野で競争力を発揮する。しかし、単純な価格競争において日本企業が戦ってゆくことは、高賃金・高コスト体質の日本では至難の業である。低賃金諸国が続々と世界市場に参入してくる結果、雑貨などの日用品の生産では、コストの面で、中国を初めとする低賃金諸国に到底かなわなくなっている。生き残るために日本のメーカーは、日本でなければできないような高品質・高性能・高機能の商品(つまり、日本ブランド)を売り出してゆかなければならない。それこそが、高度の技術とノウハウが集約されているので、高水準の企業しか生産できない生産財・資本財(部品・材料・機械など)であった。
1973年と79年の二度にわたるオイルショックが勃発したとき、このことにいち早く気がついたのが、日本のメーカーであった。それまでの汎用品ではなく、いわば「日本ならでは」の製品をつくるために、研究・開発に力を注いだのである。
輸出額・特殊分野別(1977-2004)
【出所】総務省統計局「日本の長期統計.18-1-c 輸出額-特殊分類別(昭和40年~平成16年)」
( http://www.stat.go.jp/data/chouki/zuhyou/18-01-c.xls )より、筆者が作成。
この転換は当該企業にとっても、産業界にとっても、大きな挑戦であった。ここではその成功の理由を2つだけ挙げよう。第一が、企業内における階層間の垣根の低さである。エンジニア・テクニシャン・ワーカーに区分される職層間での軋轢が少ないために、全社を挙げて、生産製品の転換などの困難な事業ができた。第二が、協力メーカーの真摯な支援である。日本の工業界では中小メーカーで構成される幅広い裾野産業があったこと、しかも、部品や材料などを供給する協力メーカーが、「我がこと」のように捉えて全知全霊をかけて知恵を出したことが大きかった。
とどの詰まり、企業内においても、企業間においても、欧米企業であれば疎外されてしまうような周辺的なメンバーが、日本では当事者意識を持って、「我がこと」のごとく、それぞれの課題に取り組んだ。これこそ、オイルショック後、日本企業が耐久消費財から生産財・資本財へと大きく舵を切れた理由なのである。
確かに市場は、今日、ますます拡大・深化し、グローバル化している。競争も、新興諸国の参入で、激化する一方である。「アングロ・サクソン型資本主義の世界制覇完成目前」とでも言うべきか。しかし、日本企業は、グローバル化に対して、依然として日本社会の底力で対応しようとしているように見える。
ドーア先生、資本主義の多様性論、まだ負けたわけではありませんよ。