人ーかお

科学と感性

西谷 斉(にしたに ひとし)さん/近畿大学法学部准教授
専門分野 国際法

1. 世界10大リスク

 今年の1月、米国の調査会社「ユーラシア・グループ」が2023年版の世界10大リスクを発表しました。そこではリスクの第3位としてAI(人工知能)の進歩による社会的な混乱が挙げられ、AIによる偽情報や陰謀論の氾濫、社会の分断による民主主義の弱体化や政治的な混乱が生じる危険性が指摘されています。また、9位にはいわゆる「Z世代」の影響力の拡大が挙げられています。「Z世代」とは1990年代半ばから2010年代初頭にかけて生まれた世代のことで、特に欧米ではソーシャルメディア等を通して互いに結びつき、企業や社会を含む既存の制度の根本的な変化を求める傾向があるといわれています。変化することを望まない企業や政府にとっては彼らが提起する新たな価値観や彼らの結束力がある種のリスクというわけです。その他のリスクとしては、ロシア、中国、イラン、インフレショック、エネルギー危機、米国内の分断、水資源の減少などが挙げられています。

 発表された10大リスクを眺めてみると、いずれのリスクについてもAIIT(情報技術)を含む科学技術が少なからぬ影響を与えていることがわかります。例えばロシアとウクライナではAIを搭載したドローンによる攻撃がおこなわれ、双方がITを駆使して自国の正当性を国際社会に訴えています。中国では顔認証技術を通して人々の個人情報が把握されているともいいます。米国内での保守派とリベラル派の分断にはAIが大きな影響を与えていることが指摘されていますし、イランの核開発問題はいわば「究極の科学技術」をめぐる争いだといえます。

 このように科学技術とリスクには密接な関係があるといえますが、科学技術そのものに罪はありません。誰がどのようにそれを用いるのかによって、それはリスクにも人類に福利をもたらす道具にもなりえます。まさにウルリッヒ・ベックが指摘しているようにリスクは「社会的な構成物」だといえるでしょう。そうすると、問題となるのは科学技術と人間の関係、つまり私たちが多様な科学や科学技術とどのように付き合っていくのかということになりそうです。

2. 「コスパ」「タイパ」「ロンパ」

 各企業が積極的にリモートワークを導入しているように、コロナ下の大学教育においてはオンライン授業が日常になった感があります(ここにもITと科学技術の恩恵がみられます)。今後マスクなしの生活が戻ったとしてもオンライン授業が無くなることはないでしょう。その意味ではコロナ禍は日本の大学教育に将来に渡り大きな影響を与えたといえます。

 ところで最近の学生にとっては「コスパ」だけでなく「タイパ」も重要なようです(「タイパ」とは「タイムパフォーマンス」の略語で、2022年の新語大賞に選ばれた言葉です)。いずれも時間や金の消費を費用対効果で捉える点では同じです。時間や金が有限である以上、情報やモノの洪水にさらされるなかで人間が効率や合理性を求めることはある意味自然な反応なのかもしれません。少し前、映画を10分程度にまとめた「ファスト映画」が問題になりましたが、ここには映画の内容よりもそれを観たという事実を得たうえで、仲間とコミュニケーションをするための材料を浅く広く集めたいという願望が見え隠れしているような気がします。ゆっくり座って楽しみながら味わうものだった映画が、コミュニケーションの手段として目的化したともいえるような状況です。

 私はいくつかの授業を教員があらかじめ収録した動画を受講者が好きな時間に視聴する「オンデマンド型」で提供しています。各回およそ90分の動画ですが、多くの学生が1.5倍速または2倍速で視聴していると想像しています。最近話題の「Chat(チャット)GPT」は、手っ取り早くレポートを作成したい学生にとっては力強い味方になるでしょう。「コスパ」(費用の節約)と「タイパ」(時間の節約)はZ世代のみならず、広く社会一般に浸透している現代人の行動様式となっているのではないでしょうか。費用や時間の節約は科学技術の発展とある意味で親和的ともいえます。

 最近ではロンパ(論破)という言葉もよく耳にするようになりました。明快さや単純さを求める近年の風潮の影響もあるかも知れません。私はゼミでディベート(討論)を取り入れていますが、それは相手側を尊重した"知的なゲーム"として一定のルールに基づいて実践させています。相手を敵視して攻撃する、人格を否定する発言をすることはご法度ですし、そもそもディベートの目的は相手を"論破"することではありません。

 科学技術が発展し、スマホを持つのが当たり前になり、「Chat GPT」のような新たなツールが次々と生み出されていく反面、日本では毎年2万人以上が自らの命を絶っています。人々が抱える不安や不満、孤独感はますます高まるばかりです。2021年に政府内に孤独・孤立問題対策室が設けられたのは象徴的です。こうした閉塞的な社会状況の中で、対話や熟議、協力や共感、寛容といった精神が失われつつある気がします。

3. 「感性」を大切にする

 私が高校生の頃、近所の大学生に借りて読んだ「法学教室」という雑誌のなかに「法律学の底には人間の温かい血が流れている」という一節がありました。それが妙に私の心に残ったこともあって大学は法学部を目指すことにしました。もともと自然が好きでしたので自然豊かなキャンパスが印象的だった中央大学を受験しました(当時、東京の生活にあこがれて地方から来た友人は自分の地元よりも田舎だとぼやいていましたが、法学部が茗荷谷に移ればこうした笑い話?はなくなることでしょう)。

 私は幼少時に父親の仕事の関係で約3年間当時の西ドイツのボンに住んでいたことがあります。家の目の前に森や原っぱがあり、鹿やウサギ、ハリネズミなどをよく見かけました。当時はアジア人が珍しかったこともあって、幼いなりに日本人であることを意識させられる出来事もありましたが、生涯の友人に出会うこともできました。豊かな自然に囲まれたドイツでの生活は私の感性に大きな影響を与えたように思います。

 そんなこともあり、私は学生から留学の相談を受けたときは基本的に賛成することが多いです。若いうちに海外で異文化に触れ、世界各国から訪れた人と交流し、外から日本という国や日本人を眺めることはかけがえのない経験です。私はゼミの学生に対し、留学に興味がなく、あるいはお金が無くて留学に行けなくても、日本には外国人がたくさん住んでいるのだからその人たちの話を聞いたり交流したりすることを勧めています。これも立派な国際経験になるはずです。

 私の専門分野である国際公法(public international law)は一言でいえば「国家間に適用される国際社会のルール」です。このようにいうと私たちの暮らしとは関係のない分野であるような印象を与えてしまうかもしれませんが、そうではありません。もともとパブリックは「公共」「民衆」という意味です。国際社会にはおよそ200の主権国家が存在しており、その背後には80億の人間がひかえています。つまり、国際法は究極的には80億の人間を対象にしていると同時に、無数の人間によってその存在が支えられているわけです。一大学教員としては、「自分の頭で考える市民」を送り出すことが使命だと思っています。

 人間にとって大事なのはその人の「感性」ではないでしょうか。「感性」は自分の頭で考えるきっかけを与えてくれます。これは「タイパ」や「ロンパ」では身につかないものですし、ましてや「コスパ」で計るようなものでもありません。巨大なシステムによって画一化・均質化された世界においてその人の感性をフルに発揮する機会はなかなかありませんが、私たちの感性はそこに埋もれずに人間性を保つための最後のよりどころのような気がします。失われた感性を取り戻すのは大変ですが、自分が1つの生命体であることをあらためて意識し、生身の体を通した体験や感覚を積み重ねていくしかないと思います。天才的な数学者である岡潔が自身の数学体系の基礎に「情緒」を置いたのも論理の根本にあるべきものを見定めていたからでしょう。

4. 新たなパラダイムへ

 最近米国ではスマホの代わりに旧式の「ガラケー(flip phone)」を利用する若者が増えているそうです(背景は少し異なりますが日本でも最近「平成レトロ」が注目を集めています)。彼らは必要最低限のコミュニケーションの道具としてそれを利用しつつ、むしろ本を読んだり、景色を眺めたり、友人とおしゃべりを楽しんだりすることに価値を見出しているとのことです。いつの時代も新世代には冷ややかな視線が向けられがちですが、Z世代が提起しうる新たな価値がここにあるような気がします。

 近代化を導いてきたデカルト以来の機械論的な世界観への反省が各方面で試みられていますが、デジタルの世界とアナログの世界を自由に行き来するこうした新たな価値観は――感性豊かな市民相互の国境を越えたつながりとともに――人間と自然環境、人間と科学技術の関係に関する新たなパラダイム(思考の枠組み)を提供する小さなきっかけになるかもしれません。

西谷 斉(にしたに ひとし)さん/近畿大学法学部准教授
専門分野 国際法

神奈川県鎌倉市出身。1995年中央大学法学部卒業。1997年中央大学大学院法学研究科博士前期課程修了。フルブライト奨学生として1999年~2000年米国ルイジアナ州テュレーン大学ロースクール留学(LL.M. in International & Comparative Law取得)。2005年中央大学大学院法学研究科博士後期課程単位取得退学。2005年近畿大学法学部講師。2009年近畿大学法学部准教授(現在に至る)。2017年~2018年マックス・プランク外国公法・国際法研究所(ドイツ)客員研究員。

専門分野:国際法

著書・論文:沖大幹・姜益俊編著『知っておきたい水問題』(共著)九州大学出版会(2017年)、『学生のためのプレゼンテーション・トレーニング』(共著)実教出版(2015年)、「『科学への権利』の概要とその統合・接合機能」『法学新報』第128巻10号(2022年)