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エジプト司法制度見聞録

丹羽 健介さん/弁護士

はじめに

 筆者は、1964年中央大学法学部を卒業し、1968年に弁護士登録をし、花井忠法律事務所に入所した。花井忠先生の岳父花井卓蔵博士は、中央大学の前身英吉利法律学校の第一期生で、明治、大正、昭和にわたり弁護士、政治家として活躍し、刑事弁護の第一人者といわれた。英吉利法律学校の創立者の一人である法学界の重鎮穂積陳重博士は、ローマ時代の大法曹キケロに「酷似する所ある」としてローマから持ち帰り、二十有余年書斎に置いていたキケロの像を花井博士に贈っている。日弁連発行の「弁護士百年」にも、「もっとも世に知られた弁護士である。」と書かれ、その生涯は、読売新聞に連載された村松梢風作「花の弁論」に詳しい。そして、現在の裁判員制度に結びつく1928年施行の陪審法の制定に尽力した国際的視野の豊かな人であった。花井忠先生は、戦前の五・一五事件、ゾルゲ事件に連座して起訴され、無罪となった犬養健氏(後の法相)事件などのほか、東京裁判では、廣田弘毅元首相の弁護をなされ、その弁護活動は、城山三郎の「落日燃ゆ」に描かれている。後に乞われて検事総長の要職を歴任したが、中央大学では、刑事法の教鞭をとられ、ベルリン大学、ウイーン大学に留学しているので外国法に明るい国際派の先生であった。

弁護士の国際化

 弁護士の国際化が求められている。欧米アジア諸国で活躍している日本の弁護士は多いが、中東諸国でアラビア語を駆使して活躍している弁護士は極めて少ない。

 アラビアに対する個人的関心から67歳でアラビア語を学び始め、ようやく辞書を引きながら文章を読めるようになったので、筆者の所属している第一東京弁護士会の総合法律研究所に「現代中近東法研究部会」(以下「部会」という)を2012年に設置していただき、エジプト民法全1149条の翻訳にとりかかった。

 1949年施行のエジプト民法は、フランス民法(ナポレオン民法)に範をとりながら、ドイツ、スイス、イタリア、日本等の民法も参考にして起草され、イスラーム法も取り入れているので、現在、アラブ諸国の民法の母法となっている。従って、エジプト民法を理解すれば、他のアラブ諸国の民法も理解しやすくなる。

明治政府によるエジプトの法典翻訳

 明治政府は、領事裁判撤廃のため、当時同じく領事裁判廃止のためエジプト人と欧米人から成る混合裁判所の創設を進めていたエジプトの制度を検討した。

 そこで明治6(1873)年には岩倉使節団に加わっていた、後にジャーナリスト、作家、政治家として活躍する外務省一等書記官の福地源一郎が、イスタンブールにおいてエジプトの外務大臣ヌバル・パシャを訪ね、また明治7(1874)年にはエジプトの民法、刑法をはじめ諸法典(草案)を翻訳した。しかし、明治19(1886)年、長谷川喬控訴院判事がカイロで、欧米人の裁判官に不信感を持っていたヌバル・パシャから裁判官の選任は政府の権限とするよう忠告されたこともあり、日本は混合裁判所を採用しなかった。

 日本は1899年に領事裁判を廃止したが、エジプトが欧米人が審理に加わる混合裁判所を廃止したのは、その50年後、民法施行の1949年であった。なお、筆者は、エジプトの研究者から後記の日本大使館のレセプションにおいて、ヌバル・パシャは長谷川に忠告したようなことは書き残していなかったことを知らされた。総理も務めた政治家が自国で書き残せなかった忠告を長谷川にしたのは、日本にエジプトの轍を踏ませないためだったのであろう。

エジプト訪問

破棄院裁判官席の片倉大使(右)と筆者(左)。
裁判官席の上に、秤のモチーフと「公正は国の礎」と書かれた銘板が掲げられている。

 2017年5月に部会でとりあえずエジプト民法全1149条を翻訳した。アラビア語の法律用語の翻訳で特に困難なのは、伝統的なイスラーム法学の用語を現行法に使用したり、アラビア語では二つ、三つの単語が日本語では一つの単語になっていること、またその逆もあることである。法律用語は法律効果の発生、消滅に関わるものなので、訳語一つについても部会では議論百出である。そこで、現在のエジプトの司法制度の調査の必要性を痛感するようになった。

 幸い中央大学総合政策学部教授をなされた故片倉もとこ先生のご夫君の片倉邦雄元エジプト大使にエジプト司法制度の調査についてご協力をお願いした結果、外務省のご支援を受けることができた。2018年12月片倉大使とともに弁護士、大学教授等13人でカイロに行き、司法省、破棄院、控訴院、検察庁、アラブ弁護士連合会、カイロ大学、カイロアメリカン大学、アインシャムス大学、JETROカイロ事務所を訪問した。この訪問はエジプト国内でも報道された。

裁判所、検察庁、司法省

 エジプトの裁判所は、区裁判所、始審裁判所、家庭裁判所、控訴院、破棄院と憲法裁判所となっており、日本の簡裁、地裁、家裁、高裁、最高裁に相当する。「始審裁判所」とは見慣れぬ訳と思われるが、明治の初めに同名の「始審裁判所」が日本にあったのである。

 控訴院の法廷では、裁判長の問題点の指摘に対し、当事者、代理人弁護士が口頭で答弁しており、多くの事件が次々と処理されていた。控訴院長との面談では、日本の刑事裁判手続きについて質問された。エジプトは犯罪事実により勾留期間が定まっていることから、日本には保釈はあるが、勾留期間は更新により延長されることに驚いたようであった。

 破棄院の法廷は大きく、威厳のあるもので、裁判長の訴訟指揮も厳かさを感じさせた。裁判官席の上には、コーランの一節「慈悲ぶかく慈愛あつき神の御名において。」「人々を裁くときは公正に裁くように、神はおまえたちに命じたもう。」(中公クラシックス コーラン1 藤本勝次他訳)とともに「公正は国の礎」(筆者訳)という銘板が掲げられている。

 検察庁では、検事副総長から検察庁の組織、捜査,公判、執行について説明を受けた。刑事裁判手続きについて日本は大陸法を元に戦後一部英米法化したが、エジプトは大陸法に近い制度と感じられた。日本と異なるところは弁護人も刑の執行に関与し、死刑の執行には立ち会うとのことである。検察官の採用は公募であるが,捜査をする検察官は治安の関係から男性のみとのことである。

 司法省では、登記・公証局次長からエジプトの登記、公証について説明を受けた後、登記所に行き、日本の不動産登記は物件単位であるが、エジプトは契約単位であることを確認し、制度の違いを知ることができた。

 なお、司法省では、司法副大臣と面会し、筆者より今回の訪問受入れについて謝意を述べた。

弁護士会、大学

 カイロにあるアラブ弁護士連合会は、国連のアラブ版ともいうべきアラブ連盟発足の1945年の前年の1944年設立である。当時アラブの独立運動に身を投じた弁護士が多かったのであろう、出席された役員の方々の説明から、弁護士の独立の重要性とアラブの弁護士の一体感を感じた。日本の弁護士との違いは、エジプトでは、弁護士の経験年数、研修などにより、職務権限が審級によることである。なお、取調べの弁護士の立合いについては、日本はできないが、エジプトはできるとのことである。

 カイロ大学、カイロアメリカン大学、アインシャムス大学は,それぞれ特色があり、留学生も多く、いずれもエジプトを代表する大学である。民法を中心にしながらもイスラーム法の他、比較法を含め法律科目の授業内容,法律家への養成教育などについて意見交換をした。

おわりに

 司法がエジプトの社会経済生活にどのように影響しているのか、その実態を知るため、JETROカイロ事務所を訪問した。所長からエジプトの政治経済状況について説明を受け、カイロの地下鉄や大エジプト博物館の建設に日本が関与するなど、日本人の活躍も知らされた。

 12月5日には、日本大使館において、日本とエジプトの法制的関わりについて歴史的観点から筆者が発表し、約100人の地元の司法関係者、大学関係者のご参加をいただいた。さらに大使館ではレセプションを開催していただき、盛況裡のうちに終えることができた。

 また、片倉大使の旧いご友人には歓迎会を開いていただくなど、いずれの訪問先においても丁重なるご対応をしていただいた。このような訪問が実現できたのは片倉大使、能化正樹エジプト大使、日本大使館の館員の方々のご支援ご協力による。ここに関係各位に対し御礼申し上げるとともに、エジプト民法の翻訳作業に今回の訪問の成果を、是非役立たせていきたい。

丹羽 健介(にわ・けんすけ)さん
1942年生まれ。1964年中央大学法学部卒業。1968年弁護士登録(第一東京弁護士会)。1985年最高裁判所司法研修所教官(刑事弁護)。2001年第一東京弁護士会会長、日本弁護士連合会副会長。現在第一東京弁護士会総合法律研究所現代中近東法研究部会長。中央大学名誉評議員.東京清和法律事務所代表。