金子 晋輔さん【略歴】
金子 晋輔さん/弁護士、伊藤見富法律事務所(外国法共同事業モリソン・フォースター外国法事務弁護士事務所)
星条旗に染まるロックフェラーセンター
2016年11月9日午前3時。ニューヨークJavitz Centerで行われたヒラリー氏の集会から帰宅するタクシーの中で、トランプ氏の勝利演説を聞きました。ラジオから流れる支援者の歓声を耳にして、9ヶ月前にニューハンプシャーで出会った、ある青年のことを思い出していました。彼は今何を思っているのだろう、と。
私は、2010年から伊藤見富法律事務所(外国法共同事業モリソン・フォースター外国法事務弁護士事務所)で5年半働いた後、事務所の支援を受けて、昨年夏から今年5月までの約10ヶ月、ニューヨーク大学(NYU)ロースクールに留学しました。日本では特許訴訟、国際仲裁、難民訴訟などに携わっていたため、NYUでもIBRLAという、国際ビジネス規制と訴訟・仲裁のプログラムを選択しました。
私がニューヨークに住み始めた2015年の夏は、大統領選まで優に1年以上ありましたが、既にテレビはその話題で持ちきりでした。大統領選のダイナミズムを感じるのが留学の一つの目的だったため、2016年1月の終わり、ニューヨークから6時間かけてニューハンプシャー州ナシュアに向かいました。予備選に向けたトランプ氏のタウンホールミーティングに参加するためです。
サインを求めるサポーター
到着したのは朝6時過ぎ。気温は零度近く。金曜日の早朝から会場のホテルの前に行列ができていました。おばあちゃんから孫まで家族総出の人もいれば、ベトナム戦争やイラク戦争の従軍経験者もいました。地域のお祭りといった雰囲気で、参加者が楽しそうなのが印象的でした。「どこから来たの?」「サポーターなの?」とよく話しかけられました。「支援者がどういう人なのかを知りたくて会いに来ました。」そう答えると、「へー、奇特な人もいるもんだね!」という反応で、皆オープンに質問に答えてくれました。
4、5時間待って登場したトランプ氏の演説の盛り上がりようは、まるでロックコンサートでした。終わると同時に、聴衆がわっと演台の前に駆け寄り、赤いキャップやトランプ氏の写真を手にサインを求めました。群集を押しとどめようとするボディーガードをかいくぐって、皆トランプ氏にスマートフォンを向け、手を伸ばして「Donald!」と叫んでいました。
その15分ほど続いた喧騒の中に、放心した様子で座っている青年を見つけました。彼は、サインをもらった著書を握りしめて涙ぐんでいました。「Mr. Trumpは僕のヒーローだ。」その言葉がナシュアの熱狂を物語っていました。
Election Protectionのバッジ
ニューハンプシャーの衝撃に背中を押されるようにして、私は、サンダース氏がニューヨークの公園を数万人の参加者で埋めた演説にも、ヒラリー氏がハーレムの聖地アポロシアターで行った演説にも行き、支援者と話をしました。私は投票権のない部外者なのですが、どの支援者も「関心を寄せてくれるだけで嬉しいよ」と言ってくれたのを嬉しく感じました。
投票日の11月8日には、事務所のプロボノ活動でElection Protectionという無党派の選挙ボランティアに参加し、投票に関する手続が守られているかをチェックしました。私が担当したマンハッタンのアッパー・ウェスト・サイドの5箇所の投票所では、数多くの選挙スタッフが窓口で働いており、中には「ニクソン元大統領の選挙から毎回選挙スタッフとして働いている」と言っていた人もいました。
選挙が終わった今思うのは、この1年以上、各候補に関するニュースにせよ、ディベートの内容にせよ、とにかく、選挙の話が、学校でも、カフェでも、バーでも、日常的な話題になっていたということです。もちろん、「大統領を誰にするか」というのは重大な決定ではありますが、変化の速い現代において、一つの決断をするのに、国民全体でずっと議論をしていることの凄まじさは、アメリカで生活してみて初めて実感できたことでした。
卒業式でIBRLAのクラスメイトと
NYUのLLMプログラムには、50ヶ国以上から400人以上の留学生が来ていて、毎日のようにイベントがありました。慌ただしい日々の中でも、どこかの国で大きなニュースがあれば集まって議論をし、励まし合いました。気づけば、「どこかの国」のニュースは、クラスメイトの「誰かの国」のニュースになっていました。Franco Ferrari教授のIBRLAは30人ほどのコースで、卒業要件になっているプレゼンテーションと論文という共通の課題もあったため、家族のような一体感がありました。また、他国の実務家とともに模擬仲裁の仲裁人を務めたことは、代理人の弁論を判断者の立場で聞ける貴重な機会でした。
3年コースのJDプログラムの学生はボランティアに熱心でした。ニューヨークで失業中の人たちの就職面接のトレーニングをする学生や、不当な停学処分を受けてしまった公立学校の学生のために学校側と戦う学生や、不当解雇をされた労働者のために雇用者と交渉をする学生。子供の頃から大統領選のディベートを見て育っているアメリカの学生たちは、法律の勉強を始めて間もないということが信じられないほど、堂々と説得的な議論をします。彼らと一学期間、民事訴訟手続の最初から最後までを通して模擬裁判を行ったことは大変勉強になりました。
ロースクール前のワシントンスクエアパーク
私は、東京でもアメリカ人のローヤーと一緒に仕事をしていましたので、日常的に英語を使う機会がありました。しかし、ニューヨーク生活が半年を過ぎた頃に、英語が単なるコミュニケーションの道具にとどまらず、自分の身体の一部になっていることに気づきました。ニューヨークでは街の人たちから気軽に声をかけられます。駅でも、通りでも、カフェでも、エレベーターでも、隣にいる人と話をしますし、店員ともよく立ち話をします。彼らと話をする中で、徐々に自分の語彙が増して行き、また、語彙の一つ一つに自分の経験が蓄積されていきました。少しずつですが、英語に自分の感情を乗せて話すことができるようになってきたのを感じます。
ブルックリンからマンハッタンを望む
海外に限らず、新しい環境で暮らすことの意味というのは、自分の知らない人に会い、話をし、その人から新しい言葉をもらい、新しい見方をもらうことなのだと思います。遠くの街に住み、知らない人と交流するのには、少しばかり勇気が必要ですが、その分の見返りはとても大きいものです。私は本当に素晴らしい人たちから多くの助けを得ましたので、これから新しい挑戦をする人たちに、惜しみないサポートを提供したいと思っています。