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杉山 忠昭さん【略歴】
杉山 忠昭さん/花王株式会社 執行役員 法務コンプライアンス部門統括
本稿は、JSPS科研費15K03220の助成を受けたものです。(広報室)
所属会社でコンプライアンスの講話を行う時には、必ず「なぜ、皆さんは花王においてコンプライアンスが重要と考えているのですか?」と、問うことにしている。コンプライアンスの重要性を否定する役職員は一人もいないが、明快に即答できる者もいない。たまに答えがかえってきても、会社が法律違反できるわけがないとか、行政罰・過大な課徴金・刑事罰またレピュテーション低下による事業活動への悪影響が心配、などという答えが多い。
「赤信号は止まれ」というのは誰もが知っていることで、実行していること。では、なぜ赤信号は止まれなの?と問うと、これまた明快な答えが返ってこない。常識、小さい頃からそう教えられてきたから、ルールだから、、、とか。
こうした答えをする人、答えられない人に、コンプライアンスの啓発・浸透をするのが最も難しい。私は、『皆さんが「安心・安全」にこの会社で働くために、皆さん自身のためにコンプライアンスを繰り返しお願いしている』と説明する。信号規則は道路交通法であるが、その目的は、無事故・交通安全である。そのために青は進め、赤は止まれと定めている。これを守ることで安全に安心して横断、運転ができる。交通事故の被害者・加害者が話す交通ルール順守の話は、身をもって痛い経験をしているので説得力がある。みなさんも、なぜコンプライアンスが重要か自分事として考えねばならない(ポイント①)。
複雑で詳細な条文をまる暗記していなくても、自分に関わりのある法律や規則をコンプライするためには、なぜその法律や規則が存在するのか、その目的は何なのかさえ理解し納得しておれば、そうした場面に直面した時の貴方の行動は99%正しく、コンプライアンスを全うできる。常に法律・規則の存在目的、本旨を意識してほしい(ポイント②)
さて、人々が信号を無視して我先に交差点に突っ込んだら、、、事故が多発するだけでなく、そのために大渋滞となるのは明らか。信号を守ることで安心・安全な交通に加えて、渋滞なしのスムースな効率的な交通が実現できる。効率性の確保・向上は企業価値向上の源泉である。明確適正なルールを設定し、これを全員で遵守することは、効率性の向上というプラス及びレピュテーションの低下を防ぐというマイナス、両面において企業価値向上に直結する(ポイント③)。
正しくプログラムされたコンピューターであれば、正しくデータをインプットすればすばやく、正確に効率的に処理できる。しかし、日々のすべての事象を予測したプログラムの開発はできない。
ある日、私は車を運転し陸橋を通過していた。黄色いセンターライン(追い越しのための反対車線はみ出し禁止)があるにもかかわらず、それをやってしまった。案の定、パトカーに止められた。しかし、私がその理由を警察官に説明したら、反則切符を受け取らずに無罪放免となった。「前を走行している車が急ブレーキを踏んだので、とっさに追突回避行動をとった。」と。道交法の目的を思い出してほしい。交通安全、事故防止である。この目的からして私のとった回避行動は、法律上も容認される。江戸時代の火消は延焼を防ぐため隣家を取り壊すことを認められていた。本来の目的のためには時として人は表面的なルールを自らの判断と責任で破らなければならないことがある(ポイント④)。先日、米国で自動運転車による死亡事故が発生したという衝撃的なニュースが流れたが、物事にはコンピューターには任せられない人間の自己責任による判断が必ずある。
今春ニューヨークで開催された米国シンクタンク系のコンプライアンスに関するカンファレンスに参加した[2]。スピーカーは皆一様に口をそろえて、コンプライアンスの推進はトップの強いコミットメントによるトップダウンと、行動規範の制定や通報相談窓口の設置運営などを梃子としたメンバーへの施策・教育というボトムアップの双方向の努力が必須であると強調していた。「ブロークンウィンドウ理論」 米国ラトガース大学のケリング教授がこの理論に基づきNYの地下鉄の凶悪犯罪抑制のため落書きを徹底的に消すことを提案、いろいろな議論を経て、5年後には落書きの清掃作業の進行につれて凶悪犯罪の増加速度が鈍り、ついには減少に向かったという話はあまりにも有名[3]。コンプライアンスの推進においても、トップマネジメントは強い意思をもってコンプライアンス環境を整備・維持し、メンバーに対してそうした環境の恩恵を実感させ、自分事として参画させる風土を作りあげることが最も有効であるということを示す実証例である。
行動規範の制定や通報相談窓口の設置運営などのしくみ・制度によるコンプライアンス推進ももちろん有用な手段であるが、私はそれにもまして役職員ひとりひとりが自分事として、より良い環境の維持向上していきたいというモチベーションを自然体で、持続する風土、成果や福利厚生を含めた仕事へのモチベーション、会社の成長と自己実現という自身の成長が共栄する風土の醸成(ポイント⑤)を大事にしていくことが一番のコンプライアンス推進と考えている。そうすることで、コンプライアンスの推進のみならず、企業価値の向上も図れると信じている。
コンプライアンス活動の効果は数値化できないので、何等かの定期的効果測定・評価を考えねばならない(ポイント⑥)。コンプライアンス推進がトップダウン/ボトムアップの双方向からの施策であることから、1)トップへの定期的報告によるフィードバックの受領と、2)推進施策に対する社員からのアンケート等の手法によるフィードバックの受領が必須となる。所属会社では、取締役会への年次報告で社会変化、通報相談の傾向、教育啓発の実績、年次計画の進捗、懲戒・法令違反状況等を報告し、取締役会の期待とのギャップ等についての指摘を受けている。社員に対してはアンケートの実施、車座の議論等において意見を聴取している。こうした自己評価とともに客観的評価のため、3)「World's Most Ethical Companies(世界で最も倫理的な企業) 」の調査表の回答と評価のフィードバック受信。1)乃至3)の分析と次の施策への反映が、コンプライアンス活動における絶えざる革新の源泉となっている。
調査表は、コンプライアンスプログラム、社会との共生、倫理文化、コーポレートガバナンス、及びリーダーシップ・革新性・世評の5項目でなんと94ページから構成されている。各項目の質問「2016 Ethics QuotientTM Survey」の方向性は次の通りである。
米国の視点からの英語の質問を日本の環境・制度に引き直して読み解き解答するのはかなりの負担となる。トップの関与度・本気度を測る質問から手続・制度の確認、公表姿勢など、多岐にわたっているが、自社評点と受賞会社平均を比較するなどの方法で、いま、当社がどの項目がどのレベルにいるかフィードバックを受けている。回答時にYESを付けられなかった項目、評点が低かった項目などが翌年に向けての改善課題となる[4]。
彼らの質問と解説一例を紹介する。
「あなたの会社は、サプライヤー、エージェント、仲介人、小売店などの行動規範を確認・関与していますか?」
――社外のステークホルダーと倫理的なビジネス活動への期待を議論するということは、その組織自体及びビジネスパートナーが真剣に遵法倫理を実施し高いレベルに維持するという明確な宣言である。Ethisphereでは、各社が自社のこうした期待に他社の行動規範を添わせることが今日の潮流であるとみている。2016年の受賞者の82%が取引先の行動規範を確認しているが、これは2015年比5%の増加である。
最後に、所属会社の企業理念である「花王ウェイ」の基本となる価値観にうたわれている『正道を歩む』の起源を紹介して筆を置きたい。
「人は幸運ならざれば非常の立身は至難と知るべし。運は即ち天祐なり。天祐は常に道を正して待つべし。総て何事も順序を誤るべからず。」
花王の創業者が病床において遺した企業経営者としてあるべき姿の一節である。明治の時代のことである。