石森 雄一郎さん【略歴】
石森 雄一郎さん/石森総合法律事務所
私が中央大学法科大学院に入学したときは26歳になる年でした。旧司法試験も既に5回受験しており、精神的には「もう後がない」という状態でしたが、私と同じ3期既習で入学された学生は私と同じような経歴の方が多かったせいか、友人とは何とも言えない連帯感がありました。入学直前の2年間は、ほぼ毎日誰とも話さずに図書館に籠る生活をしていたので、ロースクールに入ってからは同じ目標を持った友人が沢山でき、うれしかった記憶があります。
ロースクールでの勉強は、それまで蓄積してきた知識・考えを一つ一つ丁寧にブラッシュアップする時間でした。朝8時には自習室に来て、深夜0時頃に帰宅するという無茶苦茶な生活をしていましたが、一日中勉強に没頭できる環境を許してくれた両親には感謝しています。
クラスメイトで特に仲の良い3人とゼミを組んでいましたが、みんな必死で切磋琢磨して学生生活を送っていました。卒業後、私自身が合格したことは当然うれしかったですが、ゼミの仲間全員で合格できたことが何よりの思い出です。
クラス担任の本田先生、行政法の大貫先生、刑法の奥村先生、会社法の大杉先生、労働法の山田先生、遠山先生には特にお世話になりました。感謝してもし尽くせません。
私の出身地は福島県です。ロースクールを卒業した時には親に恩返しをしたいという気持ちもあり、司法修習が終わった時点の2009年12月に私は弁護士登録をし、故郷である福島県で勤務弁護士としての生活を始めました。
その直後に結婚もし、2011年2月には妻の妊娠が判明しました。
新しい生活がスタートしつつあった中、2011年3月12日に福島第一原発1号機が水素爆発を起こし、私の住んでいた郡山市でも大混乱が起きました。すぐに妊娠中の妻を実家のある広島市に避難させましたが、私自身は福島県で弁護士活動を継続することにしました。
弁護士は司法活動の重要な責務を負っています。当時の私の心境としては「多くの市民が残っている中で、弁護士がまず先に避難するということは社会の司法に対する信頼を失墜させる行為」と考えていましたし、何より福島県は私の故郷でしたので故郷を離れることは全く考えていませんでした。
原発事故直後の混乱は相当なもので、事故直後は、福島第一原発でより深刻な事故が起きることも想定して生活していました。そのような中、勤務していた事務所のスタッフから「ガソリンが手に入らず、避難せざるを得ない状況になっても、避難できません!」という叫び声の様な電話をもらい、地震でガタガタになった一般道に車を走らせ新潟県までガソリンを調達してきたこともありました。
また、放射線の著しく高い避難地域に、原発事故直後に立ち入らなければならない仕事も経験しました。
原発事故が発生するまで、私自身は原発の安全性について考えたこともなく、はっきり言えば無関心だったと思います。国と電力会社が吹聴してきた「原発の安全神話」を鵜呑みにして生きてきた私にとって、人生を変える大きな出来事でした。
震災発生時、私は、1年程度経過すれば福島県を中心に東北及び関東に飛散した放射性物質が人体に与える影響や除染の方針が具体的に明らかになると漠然と考えていました。しかし、時間が経っても、事態は全く好転せず、「詳細は何もわからない」という状況が続きました。
また、自分自身も被災し、母子避難家庭となったことで、それまで以上に余裕がなくなり被災者支援が十分に出来ない状況ももどかしかったです。
福島・広島間では簡単に行き来することもできず、結果として2013年3月にそれまで勤務していた事務所を辞め、同年5月に広島市内に現在の事務所を開設しました。
最終的な私の決断は、「家庭を守る」ということを優先した選択でしたが、故郷であり震災と原発事故で多くの住民が苦しんでいる福島から離れるということは、本当に苦しいものでした。家族を守るということはあれ、自分の都合で被災地である故郷から離れるという決断をしたことで、この時点で「弁護士としての自分は死んだ」と思い、当時は目の前が真っ暗でした。
しかし、広島に移住した直後、広島弁護士会の中で福島原発の重大事故によって広島に避難・移住した被災者を支援する弁護士から、同活動に参加することを要請されたことがきっかけで、広島に移住・避難した原発被災者の支援活動に携わることになりました。実際に原発事故で避難した多くの家庭の苦しみ・葛藤を見聞きし、弁護士としての自分の姿勢を見つめなおす契機になりました。
東京電力は、原発被災者の損害について①強制的に避難させられた地域及び②その他の地域に分けています。①の地域についてはそもそも居住移転の自由が強制的に妨げられていますので、東京電力は手厚い賠償をしています。しかし、②の地域については仮に高い放射性量が生活圏内で測定されたとしても「健康上の影響は証明されていない」ということで、「損害賠償責任はない」という態度をとっており、福島県内の一部地域に住んでいた住民に対してのみごく低額な賠償をしています。
しかし、放射性物質拡散による損害は、健康上の影響が証明されていなければ何もないわけではありません。放射線の人体に対する影響が一般的にも十分解明されていないなかで、原発被災地の住民は強い不安を感じています。その不安が時に家庭内の不和を呼び、時にコミュニティを破壊します。拡散した放射性物質に対する不安が容易に払しょくできない中で、当該地域に居住していた、若しくは居住を継続している者の損害を、法的に認めさせることが現在の私の使命なのだと思います。
また、福島第一原発事故発生までの経緯についてまとめた政府及び国会の事故報告書を見ても、いかに関係者が原発事故リスクに目をつむり、事故リスクがないように欺いてきたかを感じ、憤りを感じています。
多くの方が福島第一原発の重大事故によって、現在も苦しんでいます。原発事故によって将来を悲観し自死された方、放射性物質が拡散した土地での子育てに方針に食い違いがでて離婚された方、避難によってそれまで生活してきたコミュニティと関係が断絶してしまった方、形はそれぞれです。
そういった目には見えない被害を見てきた者として、二度と同様の事故をこの日本で起こしたくないと思っています。
私は、今回の原発事故を起こした背景には、国民全体における原発事故が発生するということの想像力の欠如があると考えています。「自分の住んでいる場所から一番近い原発が爆発したら、自分たちの生活はどうなってしまうのだろう?」という想像を国民全体がすることが出来たならば、そもそも原発事故はおきなかったと思うのです。
そのためにも、訴訟活動のみならず、原発事故による被害の実態をいろいろな方に根気強く伝えていくことが私の責任であると感じ、日々生活をしております。