始まりはスキーだった。中央大学南平寮(東京都日野市)の仲間に励まされ、自転車に本格的に取り組み、さらに水泳を習得してトライアスロンへ。白戸太朗氏(48)は競技の発展・普及を願って事業展開する代表者であり、いまも第一人者の選手として活躍する。
きっかけは中大スキー部
中大に入って活動し始めたころ
大阪・寝屋川市にある同志社香里高から中大に入りました。高校時代から縁あって訪ねた新潟県のスキー場で中大スキー部の方々と知り合って感銘を受け、大学は中大と決めていました。大学では好きなスキーを極め、インカレ優勝を夢見ていましたが、周囲の目は違っていました。大学進学で関西の高校生は東京へあまり行きません。まして同志社大進学が大多数という高校だったため親に反対されました。
クロスカントリースキー、コンバインドスキー競技の大阪大会や近畿大会で何度も優勝したといっても、大学レベルとなるとマイナー扱いです。スキー部は北海道、青森、秋田、長野などスキーどころの選手ばかりです。
忍耐の寮生活
圧倒されました。生活習慣や言葉の違いもあって、練習、日常生活、授業など入部当初は相当つらい思いをしました。
南平寮でも先輩たちと24時間一緒です。それが普通なのでしょうが、きのうまでのびのびとしていた高校生には息が詰まります。いまから思うとよく我慢できたと思います。
救ってくれたのは同じ寮に住む他競技の1年生でした。自転車部、剣道部、柔道部、水泳部、日本拳法部、応援団…。1年生はどの部も同じような境遇です。寮から大学までは寮生向けのスクールバスで通学。このバスの中で彼らとよく話をしました。他愛もないことですが、毎日耐えながらも頑張っているのはオレだけじゃない。互いに言うだけ言って、ガス抜きをして、オレももうひと踏ん張り、と再び前を向く。単一競技の寮だったら、どうなっていたでしょうか。ドロップアウトなんて言葉も出ていたかもしれません。
スキー部は11月になってシーズンが始まり、翌年5月ごろまで競技を続けます。6月になると、国内ではもうどこにも雪はなくて、陸上練習、陸トレの毎日。こつこつと地道な鍛錬の積み重ねで、モチベーションが下がります。
何でもそろっている南平寮
そんなある日、寮のラウンジで仲のいい自転車部員と一緒になった時でした。「泳げるのならトライアスロンやってみたら。タロウならできるよ」。「でもなあ、自転車がないんや」
後日、こちらも仲良しの水泳部員がプールの一般使用日を教えてくれ、スイム練習が可能になりました。賞品の自転車が欲しくて初めて出場した「第2回全日本雪上トライアスロン大会」(1987年2月15日)で優勝。念願の自転車を手に入れました。自転車部員がそのメンテナンスをしてくれました。競技用具やウエアは「これ使ってよ」。ついには自転車部の練習に参加を許可してもらいました。大学施設で何でもできたんですね。
ランは高校時代に駅伝大会に駆り出されたこともあるし、スキー部の練習で走力は鍛えられています。
スイム(水泳)・バイク(自転車)・ラン(マラソン)。周囲がそれぞれの立場で協力してくれて、トライアスロンの環境が整った。南平寮に感謝です、こんな素晴らしい環境、ほかにありません。
多競技多種目選手が集まるのは人間形成の場としてもいい。大学には寮をずっと残してほしいと思います。
現在の仕事も競争社会です。生き残るには、より広い目が必要です。異業種との交わりがチャンスとなります。南平寮が原点を教えてくれました。
転機の教育実習
アイアンマンレース世界選手権で疾走する白戸選手(競技写真提供・白戸太朗氏)
自転車の練習にのめり込んでいきました。スキーのシーズンオフ練習の一環だったのが、様変わりです。自転車が面白くなった。冬(スキー)のための夏(自転車)なのか、夏のための冬なのか。そのころは年中、ペダルをこいでいたようです。
もちろんスキーも頑張りました。当初の夢、インカレ優勝は果たせなかったものの3年次、4年次では“やり切った”との達成感がありました。
就職活動では教員志望ですから、大阪の母校へ教育実習に行きました。目指すのは「社会」の先生です。教壇に立つ一方で、課外活動でスキーも教えます。その際、僕には体育が合っていると肌で分かり、体育教師になりたい、と思うようになったのです。中大ではどのカリキュラムを探しても体育教師への道はなかったんです。
周囲と相談して、中大商学部を卒業した1989年、日本体育大に編入学。3年間、ここで学びました。この間はトライアスロンに専念しようと決めました。
2年目に日本のトップになり、3年目にプロ転向。生活の大半を占めるようになりました。92年4月、日本体育大大学院に進学し、運動処方学を専攻しました。競技では6年連続で世界選手権の日本代表に、92年からは日本人として初めてワールドカップシリーズで世界を転戦しました。
どれ一つとして無駄なことはない
同志社大へ進むはずが中大へ。スキー部から自転車、水泳を経てトライアスロンへ。社会教師転じて体育教師に。どれ一つとして無駄なことはありませんでした。それぞれがあってこそ、次の一歩が見えたし、進むことができたのです。
中大生には、いろんなことにトライしてほしいと思います。結果が出なくとも好奇心を持って、またトライ。失敗してもいいんです、まだまだ若い。学生時代がチャレンジできるときです。失敗を恐れ、若いうちから手堅い道を歩くのは、もったいない。大いにチャレンジしていきましょう。