臼井 祐子さん(経済学部4年)【略歴】
臼井 祐子さん(経済学部4年)/「湘南ひらつか織り姫」に選出
夜空ではなく、織り姫は中大多摩キャンパスに現れた。臼井さんは経済学部国際経済学科の4年生。笑顔が素敵な女性である。
中大3年次にオーストラリア・メルボルンのインパクト・イングリッシュ・カレッジに1年間留学した。現地のジャパニーズフェスティバルでは親日派の人たちが自前の浴衣を着ているのに驚いた。
「日本の文化が愛されている、と感じました。うれしかったですね」
ボランティアとして参加した外国のニッポンの祭りで、日本の文化を再認識させられた。
「織り姫」に選出されたとき、「留学経験で得た英語を生かして、海外の人にも楽しんでもらえる七夕にしたい」と抱負を語った。立場を変えて、今度は海外からの観光客を迎える。おもてなしの心、ホスピタリティを示すときである。
織り姫は3人で構成する。かつてのミス七夕、準ミス七夕を改称して、いまはチームで取り組む。県内二宮町で育ち、子供のころから見てきたミス七夕、織り姫は「雲の上の存在でした」
平塚市出身の母からは「絶対になってね」とよく言われていた。表現は違うものの地域のトップスターである。家族、親族で該当する女性は臼井さんひとり。年頃になるにつれて期待は高まっていく。
留学を終え、中大に戻ったある日の自宅。目の前に応募用紙が差し出された。「これ、書いてね」。母だった。応募は初めてで、ラストチャンス。書類に記入すると覚悟が決まった。「チャレンジすると決めたら、自分で(書類を)投函しました」
最終選考はWEB投票に変わっていた。今回で2回目。決勝進出者となる候補者6人はインターネット動画に出演し、13日間のWEB投票で上位3人が織り姫となる。臼井さんも友人らに投票を頼み、息を飲むようにして発表を待った。全6748票を得て上位に入った。
「最後まで残るとは思わなかったです。織り姫に決まったとき母、祖母はもちろん家族みんながすごく喜んでくれて」
祖母は記事掲載の地元紙を大量購入して、周囲に手渡した。
平塚市の人口は約26万人。七夕まつりには170万人(昨年実績)もの観客が集まる。七夕ならではの飾りは中心部で約500本、メーン会場では絢爛豪華な飾りが通りを埋め尽くす。天から降り注ぐような色彩豊かな飾りは夢のシャワーのようだ。大型飾りとなると10mを超えるものもあるという。
平塚駅には臨時改札口ができ、ホームや目抜き通りは人、人、人…。アジアから、欧米から外国人観光客がやってくる。ピークの1993年には361万人にも達した。正月の東京箱根間往復大学駅伝競走の第4区も有名で、平塚―小田原間は相模湾を見ながら走る絶景コース。
七夕まつりは3日間開催、夏の暑い盛りである。1日中、立ちっぱなしで観客を迎える。まつりの3日間を乗り越えると、1年間の公務が待っている。浴衣、ドレス、たすき…。多様なユニホームをまとい、織り姫でいる間はいつも以上に、健康に留意しなければならない。
「私、体力には自信があります」
小学校・中学校とバスケットボールを続け、神奈川県立高では甲子園を目指す硬式野球部マネジャーに情熱を注いでいた。大学に入るとスポーツジムのインストラクター、夏休みは地元大磯ロングビーチでライフガードを務めた。
咄嗟の判断力、国際発信力、体力、人命救助、心づかいなどを備え、満を持しての出番である。平塚の、湘南ひらつか七夕まつりの牽引車となる「湘南ひらつか織り姫」。
臼井さんにとって、ことしは特別な日々になるだろう。
■七夕まつり
中国の牽牛織女の伝説に基づいて始まり、日本へは星まつりとして伝えられた。はじめは宮廷貴族を中心とする都の生活のうちに受け継がれ、書道の上達や恋愛の成就を祈る風習となった。江戸幕府はこれを年中行事に取り上げ、武家の風習となり、しだいに庶民へも普及されるようになった。(平塚市HP)
■「湘南ひらつか織り姫」応募資格
(1)神奈川県在住者の女性で18歳以上。高校生と過去に「ミス七夕」や「織り姫」に選ばれた人を除く。
(2)ほかの市町村キャンペーンレディなどに選出されていない人。
(3)タレント事務所などと専属契約をしていない人。
(4)選出の日から1年間、七夕まつりや平塚市の観光行事など(1人平均25回)
に必ず参加できる人。 ※来年の募集は2月ごろです。
■同審査
(1)第1次審査(午前)自己PR
(2)第2次審査(午後)審査員による質疑応答