吉田 祈代さん【略歴】
吉田 祈代さん/福岡地方裁判所判事
震災直後の平成23年4月、裁判官に任官し、地縁のない福岡に転勤しました。
一年目は福岡高等裁判所民事部に配属され、管轄する各地方裁判所の判決に対する控訴事件を、二年目から、福岡地方裁判所民事部に配属され、貸金返還や損害賠償請求などの民事事件一般を単独で担当することに加え、労働者が雇用主に対して残業代を請求したり解雇の効力を争う、労働事件を担当するようになりました。
同じように訴訟に携わる法律家でありながら、代理人から見る事件と裁判官として見る事件の様相は異なっています。裁判官が触れるのは代理人が選別した事件の破片に過ぎないことによるものですが、逆に動かせない事実から代理人にも見えなかった事件の核心に迫ることができる場合もあり、その過程を推理小説に例える裁判官もいます。
また、代理人弁護士による依頼者に対する粘り強い説得と相手方との交渉によって、難しい事件が和解で終わる場面では、当事者の紛争解決に果たす代理人弁護士の存在の大切さを改めて感じました。
福岡地裁のお濠から福岡タワー方面を撮影
最初に弁護士を選んだのは、自分が当時、内向的な傾向が強かったのに対し、弁護士という仕事が非常にアクティブであるという印象から、自分を外向的に変えたい、という気持ちがあったためです。もっとも、弁護士が出張等、事務所の外に出かけることも多いので、出歩くことが好きだった自分は、各地に出張する仕事がしたかった、というのが一番の動機だったかもしれません。
勤務していた事務所の所長である阿部三郎先生は、事務所から独立した先生方とも仕事をすることが多かったので、事務所内外の多くの先輩弁護士の多様な仕事ぶりを見ることができました。
また、阿部先生自身が、弁護士としての仕事以外に、大学の理事長等様々な役職を兼務しており、所員にも事務所外での活動をむしろ後押ししてくれたので、中央大学の社会人大学院に行くことについても、非常に喜んで下さいました。
現在の裁判官を選んだのは、弁護士として阿部法律事務所で勤務して、10年目を迎える数年前から、10年目以降、どのように仕事をしていこうか考えていたのですが、平成20年から任官していた調停官(非常勤裁判官。原則として週1日、調停事件を担当する裁判官として勤務する制度。)としての経験が面白かったことと、元々自分の好奇心が幅広く、もっと広く事件を扱いたい、そのためには経済合理性に縛られずに事件を担当できる環境に行きたい、と漠然と考えていたことが合致したことによります。
法学部時代は、司法試験を目指していた仲間が多く、ゼミや大学の講義、また法職講座での答案練習会を利用し(いわゆる司法試験予備校は学費が高かったので、模試を利用するくらいでした。)、大学中心の勉強でも、平均年齢くらいで合格できました。特に、合格前の仲間との自主的なゼミが、合格に直結する内容であると共に、精神的な支えになりました。
太宰府近くの宝満山山頂から撮影
また、コンピューターをいじることが私の趣味であり、大学進学の際も理工学部と法学部で迷った時期もあったことから、当時先進的な研究分野であった電子商取引を扱っていた福原紀彦教授の法律と先進技術の分野に惹かれ、平成15年に社会人大学院に入学し、福原教授に指導を仰ぎました。
調停官に任官し東京地裁の民事22部に配属されたきっかけは、私がこのような分野を研究していたことから、調停に付されたシステム開発紛争の事件を担当させてみよう、ということだったと思いますので、この指導が、現在の裁判官任官につながる大事な経験につながっているといえます。
加えて、社会人大学院には、通常の会社に勤務しながら学んでいる、業種も年齢層も普段お会いしない方々と学ぶ機会がたくさんあり、そこで触れる研究テーマも様々で、自分も常に新しい分野を学んでいきたい、という気持ちを強く持つようになりました。
また、裁判官として判断をするに当たり、裁判官三人で議論をする合議事件、また単独で事件を担当する場合にも、他の裁判官と議論し様々な角度から事件を俯瞰することが非常に重要だと考えられていますが、大学や大学院では、ゼミで自ら問題点を発見するスキルや、議論のスキルを訓練することが大事だったなぁ、と今更ながら思い、自分がきちんと取り組めていたか、少し反省しています。
水中写真を撮影している姿
福原教授には、大学の役職もお忙しい中、学内外、外はロースクールの近隣の先生行きつけの美味しいお店等で、よく論文を指導頂きました。
福原教授は、お忙しいのに飲む機会も多く、ご一緒すると、非常に社交的で人脈が広いという印象があります。教授というと、研究室にこもって論文を書いているイメージが強かったのですが、福原教授はそういったイメージとは逆で、大学以外にも様々な役職のために出歩きながら、研究テーマ等を考えていらっしゃるから、柔軟で先進的な研究分野が広がるのだろうと思いました。
大学で教わった、というテーマとは離れますが、事務所で師事した阿部三郎先生も、亡くなる直前まで弁護士として依頼者方に赴き、準備書面を書き、70歳を過ぎても非常に考え方が柔軟でした。
固定観念に捕らわれない柔軟な発想は、色々な人と会って刺激を受け続けることで養われるのだなぁと、お二人を見ていて思います。