スクープ!
芸能人の結婚、破局で大見出しを打つ女性週刊誌。華々しい誌面は地道な張り込みからつくられるという。高田晶子さんは女性向け総合週刊誌「女性自身」(発行・光文社)で4年半、朝も夜もない張り込みを続けてきた。意外なことに、もう一つの顔は東京・新宿2丁目でバーを経営するオーナーママだ。
2006年、中央大学文学部卒業のマルチOGを訪ねた。
張り込み中 監禁された
写真提供=高田氏、以下同
女性自身の場合、芸能記者は編集部との1年契約で取材活動をする。芸能・事件担当だけで20人ほどの記者がいて、70歳の大ベテランから昨日入った新人まで契約形態はみな同じ、スクープを取ってきた者が勝ち名乗りをあげる。
給与は週刊誌ならではの週給制だ。スクープ料や張り込み料、記事掲載スペース料、基本給などが加算される。スクープを取れば高給取りになり、働きによっては基本給だけの週がある。
狙った芸能人の自宅近くで、帰りや出掛ける瞬間をじっと待つ。車内でカメラマンとともに張り込む。エンジンは切る。近所への配慮であり、クレームが来ては仕事にならない。
車の中とはいえ冬は寒く、夏はサウナ状態。「先輩から氷を買ってこいと言われたことがあります。氷をクーラー代わりにしました」
目だけを動かして獲物を狙う間、食事はコンビニで買ったおにぎりとチョコレートぐらい。トイレには行かないようにしている。「いま(芸能人が)現れたらどうしよう、そう思うと…」
ある夜、ある有名人の張り込みをしていた。相手側に見つかって、部屋に監禁されてしまい、暴言の数々を浴びせられた。「ほかの取材で水をかけられたことはありますが、それとは違う雰囲気で…困ったな」。危惧したのは編集部との契約だった。取材先とのトラブルは、この記者は使えないと判断され、解雇されることがある。
取材の必携用具―女性自身、携帯電話2台、ICレコーダー、名刺ケース、手帳
「私たちを怒鳴っているうちに風向きが変わってきて、悪いのは君たちを使っている方だ。謝りに来させろ!」
上層部が現場に来たとき、本人がやってきた。見慣れない顔ぶれを見て、「あれ、どうしたの!」。本人はこの間の事情は知らない。知らせていないのだろう。その相手側は私たちを苦しめていたのがウソのように言った。
「女性自身さんが取材に来ています」
高田さんが咄嗟の判断をした。「ここは話を聞いてもいい。本人に直接でないと聞けない話を、根掘り葉掘り聞き出しました」
関係は修復されて取材可能となり、その時に聞いた話で記事が掲載された。「最後の仕事かなと思っていたのに、丸くおさまって褒められましたね」
有名大学付属小学校の入学式へ母親を装って潜入したこともある。スーツを着てそれらしく振舞いながら芸能人を探す。できれば会話も聞きたい。
「いまは個人情報に関して厳しくなり、週刊誌対策とかで入場にIDカードが必要になったようです」
肝っ玉がすわっていないと出来ない仕事である。
「記者も人間です、聞きたくないことも聞かなきゃいけない。張り込みでも潜入でも、私が取材される側だったら嫌ですよ。でもそれは考えないようにした。仕事と割り切りました」
マスコミの仕事に就くまでには曲折があった。
忘れない水曜の3限
中大文学部卒業に5年かかっている。4年次、旅行代理店に就職が決まって、積極派人間の高田さんは入社前に国家試験「旅行業務取扱主任者」(現・旅行業務取扱管理者)の資格も取得した。内定者のなかで希望者によるアルバイトを3カ月続け、社内事情にも明るくなった。
さあ4月から社会人スタートだと思っていたら「留年と言われました、えっ、えっえって」。ゼミを修了し、卒業論文も通ったのに…。2年次で取るべきドイツ語が2単位足りなかった。就職先からは「ノー」の通知がきた。親には土下座して、もう1年を頼んだ。
クラスでたった一人の5年生は「先生に覚えてもらおうと教室の最前列に座り、分からなくても手をあげていましたね。あの1年間、忘れもしない水曜の3限でした」
授業はこれだけだから時間はたっぷりあった。アルバイトに精を出して、昼から原宿駅近くの中華料理店、夕方から池袋の居酒屋、深夜にはもう一軒の居酒屋で朝まで働いた。そんな折り、親と衝突、家を飛び出した。
「池袋のアパートで独り暮らしを始めました。大学2年から始めた原宿のバイトでは他大学の学生と仲良くなって、第2サークルのようで楽しかった。仕事が終わると歩いて渋谷へ行って朝までワイワイやっていましたね。バイトの給料があと3~4日経たないと入らないというとき、滞納していた電気、ガスを止められ、ケータイも料金未納で使えなくなった。交通費もないからバイトへも行けない。動くとお腹がすくのでずっと寝ていて、私何しているんだろうって考えました」
もう一度あの気持ちになって、就職活動する気にはなれなかったという。私は何をしたいのか。何をしたかったのか。考えていると、愛知・椙山女学園高3年間と中大2年までの5年間続けてきた新聞発行(新聞部)が頭をもたげてきた。
高校で校内新聞を年4回発行。2~3年次に編集長を務めた。中大では新聞学会(学友会文化連盟)に入り、「中央大學新聞」を2カ月に1度発行した。創部が1928(昭和3)年という長い歴史と伝統がある新聞だ。2年次には編集長を務めた。「そうだ、私は大学に入るときからマスコミ志望だった」
気持ちの整理がついて、中大時代に4年間所属したバスケットボール・サークルの先輩に相談した。スポーツ雑誌の編集者をしている。「マスコミの人が集まる飲み会があるよ、きみも来ればいい」
顔を出すと声をかけられた。「女性自身で記者を探している。若くて体力がある女性、仕事は芸能の張り込み班」
「昔からアイドルなどに興味がなく、芸能には関心が薄かったけれども、マスコミ就職への足掛かりとして入ろうと思って」。翌年1月、履歴書を書き、久々に就活スーツを着て編集部を訪ねると「いつから来られますか?」すぐにでも採用の雰囲気だったが、卒業を待ってからにした。疎遠だった家族とはよく話をして和解した。
ライフワーク
学生記者たちと高田さん(中央)
店を持ったのは「私を覚えてもらうため」の苦肉の策だった。ライターは高田さんによれば“ピンキリ”で、数多くの人間がひしめく競争社会。その中で取材先に「お店やっているんですか?」と興味を持ってもらう。記者2年目に新宿ゴールデン街で店を手伝い始め、その後、新宿2丁目で店を持った。
新宿2丁目といえばゲイの街。「私はゲイではありませんが、マイノリティ(少数派)がここではマジョリティ(多数派)というのが面白い。みんな楽しそうですよ」
編集部にはカメラマンを含め総勢100人を超すスタッフがいる。部内では皇室、ジャニーズ、韓流、グラビアと各班に分かれていて、女性記者は少数だ。「芸能は花形ですが、入ってきてもすぐに辞めちゃう。編集部の最年少が29歳の男性、私は下から2番目。どんな仕事でも続けることが大事だと思います。続けていれば見えてくるものが違ってきます」
そのステージに到達した者でしか分からない言葉といえる。これは次なる世代へのメッセージだ。
苛烈な張り込みを含め、不慣れな芸能記者をまずは3年やろうと決めた。3年辛抱できなければ、どこへいっても、何をやってもダメだと思ったからだ。
4年半続けた芸能班の次はルポ班に2年、いまはグラビア班に在籍し、写真中心のページを担当する。先ごろ「美味しい大学ランチの偏差値はおいくつ?」とのテーマで中大学食ヒルトップ(多摩キャンパス)を取材した。
<中大は3位、1位は青山学院大>
記者として書きたいテーマがある。右耳に障害があることで芽生えたマイノリティ(少数派)の生き方。耳は中大入学前に手術して、いまは何の心配もないが、心に刻まれた思いがある。
「マイノリティを取材はしたけれど、悲しいかな売れるジャンルのテーマではありませんからね。ライフワークとしてやっていきます」
希望は編集部との契約更新時にアピールしている。自身の治療経験を踏まえ、仕事とはいえめったにない経験を積み、張り込み中には暗闇でおにぎりを食べた、その味が分かる高田さんなら、心の琴線に触れる素晴らしいルポルタージュを世に放つ日がきっと来る。
提供:『HAKUMON Chuo』2013夏号 No.232