2012年度千葉県私立国府台女子学院中学部の国語の入試問題に、本学総合政策学部を卒業した内山麻希さんのアフガニスタン体験談が採用された。
出典は、昨年6月から7月にかけて全4回のシリーズで東奥日報の「世界の街角から」に掲載された内山さん自身が執筆した記事の一部である。
東奥日報は、内山さんの故郷・青森県を代表する地方紙だが、3月9日付社会面に「千葉の私立中学 入試に本紙記事 情報読み取る力試す」というタイトルで、改めて紹介されている。
アフガンに降る爆弾と東京に降る雪
その時、内山さんは、JICA(独立行政法人国際協力機構)の専門家としてジャララバードの農業プロジェクトに派遣されていた。アフガニスタンで主食第2位の米の国内生産高を高めることがプロジェクトの目的であり、内山さんは2名の農業専門家と一緒に、プロジェクトの調整役として現地に赴いていたという。
9.11直後にウサマ・ビンラディンが潜伏していたと言われている洞窟のすぐそばで反政府組織が潜伏している地域に近いだけに、現地では日常的にあちこちで爆弾テロが起きていたそうだ。
「テロで道路が封鎖され出勤が遅れたアフガン人スタッフも、青森で言うところの雪が降ってちょっと道が渋滞していました程度の感覚で出勤してきます。東京の人たちがちょっとの雪であたふたしている姿を目にすると、あららと思っていましたが、きっと、ジャララバードの人たちにしてみれば、ちょっとの爆発であたふたしている私たちが、あららと思われているのかもしれません。」
内山さんは、戦地に生きるアフガン人の日常を、日本との文化の違いに戸惑いながらも、平易な言葉で、感じるままに書き連ねている。
内山さんの文章を選んだ中学校の先生は、彼女の原稿には、説明的な文章と、筆者の所感がほどよく織り混ざっており、作問に適していた、そして何よりも、女子中学校を希望する受験生に、女性が世界という舞台で様々な事に悩みながらも活躍しているということを知ってもらいたかった――それが、最終的に内山さんの原稿を選んだ理由である、と伝えてきている。
この評価に対して、内山さんは「自分で文章がうまいと思ったことは一度もありませんけれど……もしもそう評価されたのであれば、それはきっと増島先生のおかげだと思います」と話す。
人生の宝――増島教授との出会い
今回の入試問題掲載について、内山さんはいち早く、総合政策学部、および大学院在学中の恩師、増島俊之先生に報告していた。この取材をする前に筆者が読んだ内山さんのマラウイでの体験記の中でも、内山さんは折に触れ、増島先生について語っている。
「字を書く(マラウイの)村の人たちを見ていると、学生時代のことが思い出されます(マラウイの識字率は低い)。私の所属していた増島ゼミでは、毎週ゼミの時間に一人一つリポートを提出することが課題とされていました。私は、一週間だらだら過ごし、ゼミの始まる直前に慌ててリポートを書くことがありました。時間がなくて一切見直しをしないリポートは、増島教授にずさんな文章だと叱られたものでした。そして、教授の鋭い質問にたじたじになっていました。<中略>今でも文章を書く時は、教授の顔が頭に浮かびます。教授にリポートを提出していた頃は、教授が間違いを指摘してくれたのですが、今は誰も指摘してくれません。そのため、今は増島教授を思い出しながら文章を書いています。ついついずさんになっていた文章が、万が一にでも増島教授の目に触れてはいけないと思い緊張しながら書いています。増島教授に出会えたことは人生の宝だと思っており、文章を書くことでいつまでも増島教授の近くにいられるような気がしています。」
「ひたすら求めて歩む」――恩師の座右の銘がいつしか我が物に
今や、そんな強力なペンの力を持つ内山さんであるが、その実態は、帰還民支援や地雷回避教育、平和構築に向けたメディア支援、途上国の小学校建設に係るPTA・学校関係者への衛生指導、石油災害対策にかかるマスタープランの作成など、あくまで現場主義であり、しかも対面していると、決して現状に満足しない、ソルジャーのような気質さえ感じられる。
「今の仕事では、日本の安全基準の枠内でしか動けないんです。1人につき3人ものセキュリティー(警備員)が付いて、街が危険にさらされると、外出も禁止。ずっと屋内にこもっていなくてはならない。これでは本当の意味で危険なところには入れません。でも、私は現に困っている人のいる場所に入って、生死ギリギリの所にいる人と接し、救いたいんです。」
内山さんが恩師と慕う増島先生の座右の銘は「ひたすら求めて歩む」とのことだが、それはいつしか、内山さん自身の目標にもなって、文章を書く際常に恩師のことを思い起こすが如く、恩師の言葉は内山さんの人生の指針として、彼女をひっそりと勇気づけているようだ。
内山さんは幼い頃から、海外に住む人たちに興味を持っており、高校生の時にテレビで見た国境なき医師団がサラエボで活躍している姿を見て、「将来は国際協力の仕事に就きたい」と強く希望するようになったという。一時は医学部を目指していたものの、その後、行政から組織を学びたいと、中央大学総合政策学部に進学を決めた。
「国の政策や行政を学び、医者とは違う方法で人を救いたい、と――そこから人を救う方法がきっとあるに違いないと思っています。」
化粧っ気一つない、素朴で強くて――ひたすら求めて歩み続ける果敢なソルジャー。
「今の自分に満足せずに、常に求めて歩みたい」――内山さんの向かうところに未だゴールは設定されていない。
NGO職員として駐在した南スーダン・カポエタで地元の人たちと
カポエタから現在首都のジェバへ向かう。民間機が未就航のためWFPの飛行機に搭乗した
カポエタの人たちとはNGOプロジェクトで簡易給水施設を設置した
- 内山 麻希(うちやま・まき)さん
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1978年生まれ。青森県出身。2002年中央大学総合政策学部卒業後、同大学院総合政策研究科修了。学部、大学院を通して行政学の増島俊之ゼミに所属(増島教授は2006年に中央大学を定年退職)。2003年、JICAのインターンシップ制度と学部の国際インターンシップ制度・奨学金でエチオピアに4カ月滞在。学生時代、約20カ国を旅行し、2005年から2年間、JICAの青年海外協力隊エイズ対策隊員としてマラウイに駐在、その後NGOでの南スーダン、JICA専門家としてアフガニスタンでの駐在経験を経て、2011年より八千代エンジニヤリング国際事業本部に勤務し、現在に至る。