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会田 有志

会田 有志 【略歴

「指導者で一番になる」――野球人生は“無限大”

会田 有志さん/読売巨人軍トレーニングコーチ補佐

 京王線「京王よみうりランド」駅から、「巨人への道」と呼ばれる急な階段を10分ほど上りつめた丘の上に「読売ジャイアンツ球場」がある。ここが、元巨人軍投手で東京ドームのマウンドにも立った、その人の今の仕事場だ。三々五々、選手が練習しているグランドを見回すと、右翼フェンス際にその人の姿があった。背番号「103」、読売ジャイアンツトレーニングコーチ補佐の会田有志さんだ。

コーチ2年目、選手の兄貴分 一番早く来て、一番遅く帰る

 右翼フェンスには、この日の練習メニューが書かれた2枚の紙が貼られてある。会田さんは、それを確認しながら、選手一人一人の動きを見守っている。ダッシュを繰り返す選手に時にはゲキを飛ばす。しかし、ピリピリした雰囲気はない。選手はみんな明るく伸び伸びと練習している。会田さんは最も若いコーチで27歳。選手にとっては兄貴分的な存在だ。

 練習は試合のない日は午前9時半から始まる。会田さんは練習開始前にだれよりも早く球場入りする。練習が始まると、笛を吹いてリードしながら選手たちと一緒にジョギングする。午前中はグラウンドで、昼食をはさみ午後からは室内練習場に移ってウエイトトレーニングする選手をコーチする。会田さんはすべての選手の練習が終わるまで立ち会うので、練習場所を離れるのはいつも一番後だ。

 「練習が終わってからは、その日の選手個々の体調や気がついたことを記録します。選手は自分のために練習するのが仕事。コーチは選手が少しでも上に近づけるようにするのが仕事で、自分のために頑張る選手とは違う」。こう語る会田さんが、すべての仕事を終えて球場を出るのは、毎日夜8時を過ぎる。

第2の二軍の若手を育成 自主性重視し、体力づくり

 巨人軍には一軍、二軍の他に高校を卒業したばかりの若い選手や育成選手など、まだ体ができていない選手が多い第2の二軍がある。会田さんは主に第2の二軍の選手のトレーニングコーチをしている。若い選手の体を鍛え、プロの体にする。それが仕事だ。

「選手に気付かせること。それが一番大切です」

と会田さんは強調する。選手にいろいろ指示して、それを選手がそのままやるというのではなく、選手自らが考えてやらなければいけないことに気付かせる。「やらされている練習はダメ。身につかない」という。

 選手の自主性を重視する会田さんは、「選手から聞かれたことに答える」ようにしている。選手に気付かせるように仕向けることはしても、選手が気付く前に、「こうしろ」とは言わない。選手を引退後、米国アリゾナ州でトレーニングコーチの勉強を行ったときに、これを学んだ。

巨人軍に7巡目で指名 選手生活は短く4年間

 会田さんは「もともと指導者になりたいと思っていた」という。佐野日大高校から中央大学に進学し、1年生で取得した単位はわずか「1」。野球部に専念、勉強をおろそかにしたからだった。しかし、そこから一転して2~4年生では猛勉強し、卒業した。一念発起して勉強に励んだのは、野球部で1年やって「自分はプロ野球で通用する体格ではない」と感じたからだという。

 壁にぶつかり、野球の指導者への道を考え出していた会田さんだが、大学2年の冬にひとつの転機が訪れる。当時、野球部の臨時コーチをしていた野球部OBで元巨人軍投手の高橋善正さん(現、中央大学野球部監督)が、会田さんの投球を見て、「あれ、いいじゃないか」と目をつけてくれたのだ。

 それを機に公式戦にも登用されるようになった会田さんは、3年生ではエースになって活躍。3年秋のリーグ戦では4勝を挙げて、中央大学の25年ぶり24度目の優勝に貢献した。「高橋さんのあの一言には本当に感謝しています」という。

 2005年の大学・社会人ドラフト会議で巨人軍に7巡目で指名され、晴れてプロの道へ進んだ会田さんは、元プロ野球選手の父親(会田照夫さん)と肩を並べた。しかし、プロ野球選手としての人生は4年間(2006~2009)で終わり、2009年11月8日に引退表明した。アンダースローで鳴らした1軍での投手成績は3勝2敗だった。

 プロ野球の選手生活は短かったが、会田さんにとっては「やることはやったので、とても充実していた」というほどに満足できるものだった。

コーチ転身への誘いに即決 前からなりたかった指導者

 選手引退を決意したきっかけは、球団から「コーチにならないか」という誘いがあったからだった。会田さんはその場で、引退してコーチになるという決断をした。「自分のことは自分で決める」と誰にも相談しなかった。「後輩たちの面倒を見るのが好きで、指導者になりたいという気持ちがもともとあったので、決断は一瞬でした」という。

 球団からは2ヶ月後からのコーチ就任を打診されたが、「やるならすぐにやりたい」と申し出て、球団から誘いがあった次の日にはコーチ業に就いた。引退後のオフには米アリゾナ州にコーチ留学し、転出への変わり身は早かった。

 25歳の若さでプロ野球コーチに転出した会田さんが、トレーニングコーチとして今一番楽しみにしているのは、「若手選手が一軍に行って活躍してくれること」だ。「選手の活躍は自分のことのように嬉しい」という会田さんだが、投手のコーチではないので、ピッチングフォームや投球術などのアドバイス、指導はしない。あくまでも若い選手の基礎体力づくりを手助けするのが仕事だ。

「指導者で一番になる」が夢 アマチュア野球界も視野に

 「投手コーチだと専門に投手をみます。でもトレーニングコーチは投手はじめ野手、すべての選手をみます。将来、最多勝投手や首位打者、ゴールデングラブ賞をとるような選手を育てているので、ずっとやりがいがありますよ」とも語ってくれた。将来、監督を目指すなら、いろいろなポジションの選手をみるトレーニングコーチの体験が活きてきそうだ。

 トレーニングコーチとして日々勉強中の会田さんの夢は「指導者で一番になる」ことだ。最近では、野球が盛んなドミニカ共和国に勉強に行き、海外と日本の練習の違いを学んだ。「海外の練習方法を日本にも取り入れるべきです」と熱く語る。

 会田さんはプロ野球の指導者だけでなく、高校、大学野球などアマチュア野球の指導者にも興味があるという。選手生活とは縁が切れたが、これからの野球人生は“無限大”に広がっている。

提供:Hakumonちゅうおう2011秋季特別号 学生記者:晝間祐亮(法学部2年)

会田 有志(あいだ・ゆうし)さん
1984年生まれ。埼玉県春日部市出身。佐野日本大学高等学校3年夏に甲子園に出場し、その後中央大学文学部へ進学。1年次は部活ばかりで1単位しか取っておらず、2~4年次で猛勉強をして2006年に卒業。中央大学硬式野球部では、父親(元ヤクルトスワローズ投手の会田照夫氏)と同じ背番号12を付け、通算45試合に登板し、秋のリーグ戦ではチームの25年ぶり24度目の優勝に貢献、最優秀投手賞に輝いた。日米大学野球選手権大会、世界大学野球選手権大会の日本代表にも選ばれ、銀メダルに貢献し、2005年の大学・社会人ドラフト会議で7巡目の指名を受け巨人に入団。2009年に現役引退を表明し、2010年からは25歳の若さで二軍トレーニングコーチ補佐に就任し、現在に至る。