1995年、法学部を卒業した猪熊隆之さんは、気象予報専門会社である株式会社ヤマテンに勤務する山岳気象予報のエキスパートだ。最新の気象データに目を凝らし、インターネットや携帯電話を活用して、24時間体制で発信する。とりわけヒマラヤ天気予報は信頼が厚く、その能力が国内外で高く評価されている。
猪熊さんは、小学生の頃から、テレビではアニメなどより天気予報にかじりついていた程の「天気好き」で、大学の山岳部では、みんなが嫌がる天気図を作成する作業が大好きだったという。気象予報士という職業はなるほど天職であるが、猪熊さんの視線は、中でも山の天気に絞り込まれている。
明るく穏やかな猪熊さんであるが、その表情からはうかがい知れない壮絶な半生が、彼と山を結びつけている。
富士山で九死に一生を得るも、再び山の世界へ
新潟県と神奈川県西部の豊かな自然に抱かれて少年期を過ごした猪熊さんは、高校では山への憧れを実現する為に山岳部に入ったが挫折。中央大学法学部進学後は、本格的に山岳部で活躍し、先輩や同期にも恵まれ、いよいよ山に魅せられていった。トレーニングを重ね、山岳のオールラウンダーとして力をつけていくうちに、いつしか猪熊さんにとって、山はなくてはならない世界になった。そんな時、事故が起きた。
大学3年生の12月、富士山合宿の折に突風で飛ばされ岩場から落ち、救助されたのは24時間以上経ってからだった。左足は粉砕骨折、出血が靴の中で凍り、凍傷にもなった。切断を覚悟する程の状態だったが、若い肉体は10時間を超える麻酔なしの手術に耐え、猪熊さんは奇跡的にも2年ほどで回復した。
ニュージーランド航空子会社の子会社に就職はしたものの、猪熊さんの心は山から離れることはなかった。中央大学でチベットの第二登チョムカンリへの遠征隊を出すと知ったことをきっかけに、会社を辞め猛トレーニングを開始、再び山に向き合った。途中では劇症性肝炎を患い1年ほどのブランクもあったが、チョムカンリをはじめ、エベレスト西稜登攀など学生時代から15年間、山登りに打ち込んだ。
むしばまれた足と、山との別れ
猪熊さんの体を骨髄炎という病が襲ったのは、旅行会社でアルプスのハイキングツアーの企画を担当していた時だった。トライアスロンのトレーニング中に足が腫れあがり、靴が履けなくなった。訪れた病院では即刻入院を命じられ、さもなくば足を切断する事態になると言われた。
幸いなことにほどなく職場に復帰できたが、猪熊さんの症例は外科的な治療が無理なもので、安静と、心身ともにストレスのない生活を求められた。限界値を超えると爆発する病との闘いは続き、猪熊さんは5年間に幾度となく入退院を繰り返した。
山に登ることができない体を抱え、山の旅を扱う会社にいることは、苦痛だったに違いない。結局猪熊さんは会社を辞め、どうしても捨てられなかった靴の他は、登山道具も後輩に提供し、家にある山関係のものはすべて見えないようにした。
山に恩返しをするために
目標を見失い、山から離れようとした猪熊さんの、この一番辛い時期を支えたのは、山の仲間だった。
「多くのものを与えてくれた山に恩返しをしたい。」そう思うと勇気が沸いてきたそうだ。何か自分に目標を与え頑張ろうと前向きな気持ちになったとき、猪熊さんが考えたのが、「気象予報士」の資格を取ることだった。
子どもの頃から好きだった天気。そしてまた、これから先も入退院を繰り返すとなれば「頭を使った仕事」につかねば、食べていけないとも考えたのだ。
猪熊さんは、大学受験以来という猛勉強の結果、見事1年で難関資格を取得した。そして勉強中に、登山家の竹内洋岳さんからの「僕が行くときのヒマラヤの天気を予報してください」という言葉をきっかけに、“山の天気予報”にたどり着く。天気と山、大好きな二つを結び合わせただけでなく、ビジネスとしても勝算ありと考えてのことだった。
猪熊さんの予報には、国内・海外での豊富な登山経験が生かされている。観測データが少なく、地形も特異なヒマラヤの予報ではとりわけ、その精度が際立つ。
ただ猪熊さんは、登山者が“便利であたる予報”に頼ってしまう危険性を指摘する。
「総合的な能力が試される山という場所で、五感を使って危険を認識し、自力で危険を回避する、その重要性を利用者には忘れないで欲しい。」
猪熊さんならではの言葉だ。
「もう一度山に登りたい」
そうして気象予報士という天職にめぐりあいながらも、猪熊さんは「もう一度山に登りたい」という気持ちを失うことはなく、病気の治療を諦めなかった。色々な病院を回り、インターネットで情報を調べるうちに、ゴッドハンドと言われる医師の手術を受けることができた。5年ぶりに杖を手放すことができたのだ。
こうして、多くの人たちに支えられた猪熊さんは、現在、母校中央大学山岳部の監督として学生たちを導き、山岳気象予報士として登山者を支えている。