小倉智昭さんといえば、いまやフジテレビの『とくダネ!』で、朝のお茶の間を賑わす「喋りのプロ」である。息継ぎなしに正確に紡ぎ出されるトークに、眠気もすっかり吹っ飛んでしまう訳であるが、毎日飽きもせずについついこの番組を選んで見てしまうのには理由がある。
彼の幅広い興味と知識の深さゆえに毎朝違う話題で繰り広げられるオープニングトークは絶品そのもの。その影響力は大きく、紹介された商品や人物は購買力を上げ、一気に人気が出るらしい。
そんな小倉さんであるが、もともとは“どもり”がひどく、コテコテの秋田弁で“喋り”には人一倍苦労したというから、人の過去はわからない。
夢は持つな、目標を持て
小倉さんは終戦2年後に生まれた団塊の世代であり、当時は食べるものもなく、“かっけ”(ビタミン B1欠乏による栄養失調症のひとつ)だったという。
「僕は子供の頃貧しくて、膝が“かっくり”ともしなかった。さらに僕はどもりだった。今でもどもることがあるけれど、お金をもらうとどもんない、マイクの前だとどもんないだよね(笑)。でも家族の前とか喧嘩をするとどもる。小さい頃は目が出目金みたいだったので、「どもきん」と言われていた。これは子供ながらにショックだったね。新宿の小学校に転校した時に、秋田の方便丸出しで自己紹介したら、みんなに笑われたのを覚えている。ホント、ゲラゲラ笑われた。それからなんだよね。何とか話しがうまくなりたい、見返してやりたいと思ったのは」
小倉さんは小学校5年の時に、父親に「夢を持つな」と言われた。普通の大人は子供に「夢を持て」と言うけれど、彼の親父さんは違っていた。
7月の七夕になるといつも小倉さんは願い事の短冊に、「どもりが治りますように。喋りがうまくなりますように」と書いていたそうだ。でも現実は厳しく、喋りは全然うまくならない。それで父親に「七夕は嘘だ、どもりがちっとも治らないじゃないか!」と抗議したところ、「智昭。夢は持つな、目標を持て」と言われた。夢は夢で終わることもあるが、目標であれば、自分が到達したところからまた目標を持てる。そして到達すればさらに目標を持てばいい――。
この教えは、還暦を過ぎた未だに小倉さんのバイブルになっている。
陸上三昧の高校時代
秋田の野山を走り回りながら幼少時代を過ごした小倉さんは、受験勉強とは無縁の生活を送っていた。同世代のみんなは塾だのゼミだのに通っていたが、小倉さんは相変わらずのんびりしており東京の世田谷に来た後も全く勉強をしなかったという。もちろん成績は惨憺たるもので、5段階評価で良くても3くらい。勉強そっちのけで力を入れたことと言えば、生徒会会長や演劇部部長、陸上部キャプテンなどの課外活動であった。とりわけ陸上競技の走り幅跳びと100メートルでは好記録を持っていたので、中央大学附属高等学校(以下中附)の先輩から「中附で陸上をやらないか」と誘われた。
まわりの同級生には「中附は難しいから絶対入れないぞ」と言われており、合格発表の時、掲示版を見たら案の定、受験番号がなかった。受験勉強をしていない自分が中附なんかに入れっこないんだと愕然としていたら、1週間後中学校の授業中に廊下と教室の間のガラス窓をガンガンと叩く人がいた。見るとそこには小倉さんの母親が立って叫んでいたという。
「智昭、智昭、受かったわよ! 中大附属、補欠で!」と。
当時の中附はスポーツが盛んでバンカラな男子校。成績優秀な学生も大勢おり、受験勉強をしていなかった小倉さんには、スポーツで入学するしか選択肢がなかったという。それでも朝から晩まで陸上の練習に明け暮れ、地べたに座りこんで先輩達にマッサージを施す毎日に、体の限界を感じるようなった。
ある日小倉さんは父親に、「部活を辞めたい」と相談したところ、早速学校に行って陸上部の先生に進言してくれた。帰宅後、父親から「陸上で中附に入れたおまえが陸上部を辞めるのなら、中附も辞めなくてはならないそうだ」と聞いた。その言葉のせいで、小倉さんは仕方なく3年間、陸上を続けたという。
これには後日談がある。小倉さんは後になって陸上部の先生から「俺はおまえが辞めたいんなら、辞めてもいいとおまえの親父に言ったよ」と言われたらしい。つまり、彼に陸上を続けさせたのは、中附の縛りでも陸上部の先生でもなく、彼の父親だった。
「入った以上は陸上部で頑張れ、意志を貫け」と。
ギリギリで運を切り開く
父親の意見として小倉さんは中附にいる間は陸上を続けることになったが、中央大学の陸上で通用する程の実力がないことを自覚するや否や中大進学を断念し、浪人した末に獨協大学フランス語学科にこれまた補欠で合格、進学することになった。アナウンサーへの就職を決めたのは、就活中に見た「フジテレビアナウンサー募集」という貼り紙がきっかけであった。
「その頃は人よりはちょっとは喋るのがうまくなっていたから、これはひょっとしたら勉強ができなくても受かるかも知れないなと思い、フジテレビのアナウンサー試験を受けてみた。一ヶ月間で7回面接があり、1万2千人のうちの6人まで残った。そこから合格したのが3人、落ちたのが3人。僕は落ちた方の3人に入った。その後に行くところがない、どうしようと思っていたら、当時東京12チャンネルでアナウンサーを募集していたので受けてみたら合格した」
中大附属高校も獨協大学も補欠合格。フジテレビのアナウンサーも最終試験で不合格だったけれど、テレビ東京でアナウンサーになり、今はフリーではあるが、フジテレビでレギュラー番組を持っている。
「人生は何が災いになり、何が運を切り開くかわからない。自分のハンデを自分の力で切り開いていこうと思うことが大事。自分に自信がなければ、それを解消するために頑張ればいい」
いまや秋田弁のきついどもりの片鱗も見せない「喋りのプロ」が語る、有言実行の名言である。
(本原稿は、「中央大学創立125周年記念行事」の一環として、昨年6月23日に中央大学附属高等学校講堂で全校生徒を対象に実施された小倉智昭さん講演会の内容を編集したものです)