「私は2回中央大学に入学しているんですよ。」
夏の太陽の蒸し暑さに包まれた多摩キャンパスを訪れ、開口一番、学生時代を懐かしむように、思い出を語り出してくれたのは、中大生の目に手になじみ深いであろう、あの中大スポーツ新聞の創始者である竹内恒雄さんだ。
「一度目の学生時代を終えた後、ある会社に就職したんですが、その会社内での中大の評判が芳しくなく、ひじょうに悔しい思いをしました。うちは中大一家でしたから、私の母校への親しみは大きかったですし、進学してからも毎日楽しませてもらいましたからね。そんな素晴らしい中大が世間で評価されていない状況を何とか変えたいと思いまして、会社を辞めてもう一度入学しようと決意したんです。」
そう語りながら、勇気ある行動に出た竹内さんは、現在、映画配給会社に勤務している。具体的にどんな方法で母校中大の魅力を世間に発信しようと考えていたのだろうか。「スポーツの力で中大内全体の活力を上げたい、という思いがありました。私が幼い頃の正月は、家族で箱根駅伝を見て中大を応援することが一つの習慣となっていました。それにあの頃は野球も抜群に強かった。そんな伝統的な強さが運動部以外の学生に知られていないことはもったいないと感じたのです。それもそのはず、当時、中大にはスポーツ新聞なる媒体が存在していなかったのですから。ならば私が創ってやろう!と。」
こうして構想に至った竹内さんであったがこれは苦渋に満ちたレースのスタート地点に過ぎなかった。「まず学長、教授の方々に相談を持ちかけたのですが反応は乏しかった。あれこれ周囲に働きかけている間に4年生(※再入学においては2年間の修学は免除)の春を過ぎていました。」就職活動にも本腰を入れる事が出来ずに焦る竹内さんに、その頃一つの出会いが訪れる。「運動部応援団長の山口君との出会いです。私の計画と思いを話すと、彼はそれらを汲み取ってくれ、体育会の組織に属する沢山の人に協力を仰いでくれたのです。それからというもの歯車が上手く回り始めました。日刊スポーツさんに、紙面構成、文章の書き方などの技術的支援をしていただいたり。アポイントメント取りから広告掲載の依頼まで全ての作業を当時40人位でこなしていましたね。」
学園祭当日の平成5年11月1日。遂に中大スポーツは完成した。創刊号のページ数は12ページ。学生が作る新聞としてはとても読み応えがある量だ。「完成した時は本当に嬉しかった。自分の貯金は驚くほどに少なくなっていましたが(笑)」先日、発刊100号を迎えた中大スポーツは今も学生の手によって走り続けている。
2つの世界を往来する今
現在、韓国映画を主に取り扱う、映画配給会社の人事部で働く竹内さん。なぜ、この業界での仕事を選んだのであろうか。「もともと、映画好きだったのです。私が学生の頃は、900円払えば3本立ての映画を観れるような時代でしたからね。一日中映画館にいることもありました。今の会社にはお誘いを受けて入社しました。」驚く事にそんな竹内さんの一日は仕事のみに始終しない。“もう一つの世界”が竹内さんの毎日の活力を更に加速させているのだ。
「私は高校生の頃からずっとABBAの大ファンでしてね。熱が高じて、ABBAの公認ファンクラブ本部に連絡し、日本でのライセンスを取得、遂には日本支部を創設させていただいたのです。今は、ABBAの日本盤CDのライナーノーツを執筆したりもしています。劇団四季ミュージカル『マンマ・ミーア!』がちょうどこの12月から東京で再上演されるので、皆さんには最低一回は観に行っていただきたいものですね。」と、ここでも応援の域を卓越した後援活動を展開している。
「以前からコラム・エッセイを書いたり、新卒中途採用ガイダンスを開催してきましたが今、ある小説を執筆中です。頑張っているのに認められない人や立場の弱い人にスポットを当て、真実を追求し、意気消沈している多くの若者や私達世代に勇気を与える文章が書ければいいですね。就職できないで困っている新卒者向けの指南本も書いてます。
竹内さんの世界はこれからも膨らんでゆく。
“I have a dream~夢があるからこそ~”の精神を
最後に竹内さんは、私たち後輩学生たちへ熱のこもったメッセージをおくってくれた。「今の世の中は就職難の時代と言われていますよね。けれど中大生には、そんな言葉に押し潰されて欲しくはない。すぐに夢が叶わなくても今を受け入れること。その夢を持ち続けたまま、チャンスが巡ってくるまで目の前の事に素直に取り組んでほしい。どうか、焦らずに。」
若人よ、夢を持つ事を恐れるべからず。
※ 竹内恒雄さんの記事については、『Hakumonちゅうおう2010(2010年11月13日式典当日発行)125特別号』にも掲載する予定ですので、あわせてご覧ください。