「ケイ!」という歓声が会場にひびく。
写真でごらんのように、日本バスケ界きっての、といわれるイケメン選手だ。
ほんとに、画像サイトを開くと、タレントかモデルらしき美女がぴったり寄り添う写真なんかもあるのである。並んでヒケをとらない、というより、も一つ上の男振りというカンジ。
妬けるでしょうね、ファンならば。
06-07、07-08、2年連続でJBL(日本バスケットボールリーグ)ベスト5に輝く。
06年世界選手権、07年、09年のアジア選手権にも日本代表として出場した。
現在「トヨタアルバルク」で活躍する。文字通りオール・ジャパンの中心選手だ。
その経歴を、<中央大学卒>と紹介するのは、なんとなくうれしい。
小6のころからバスケットボールを始めたという。中学で本格的に取り組み、バスケの名門・北陸高校に進むと1年からメンバー入り、全国ベスト8などに貢献した。
「僕らは〝田臥世代〟と言われ、高校3年間彼が注目されていて、ポジションも似たようなポジションだったので、いつか彼と同じ立場になれるようにというのが多少頭の中にありました。後は、卒業したら関東の大学でバスケットを続けることが目標でした」(「月刊バスケットボール」10年2月号)
こうして中央大学文学部に入学する。多摩キャンパスでの4年間がスタートした。
田臥、とは日本人史上初のNBA(北米のプロバスケットリーグ)入りをはたした田臥勇太選手のことである(08年国内復帰)。
「バスケットを続けていられるのは」と語る。「中央大学でのすばらしい仲間やコーチとの出会い、また充実した多摩キャンパスの環境があったからだと感じています」
なかでも、ヘッドコーチの一言が大きかった。
「何かひとつ、だれにも負けない武器を持て」
自分にしかできないこととは何か。「スピードだ」と決めて、人一倍、練習に励んだという。
06年の世界選手権まで日本代表のヘッドコーチを4年間務めたヨーロッパの名将、ジェリコ・パブリセヴィッチをして、「世界レベルのスピード」と言わしめた華麗なプレーにつながる、原点の4年間である。
3年次には、中大をインカレ準優勝に導いた。
03年卒業して「日立サンロッカーズ」に入団。華々しくデビューし、JBLスーパーリーグ03―04年新人王のアウォードを手にするのだ。日本代表として04年キリンカップMVP。翌年のキリンカップでは優秀選手賞。
冒頭の栄光と合わせあざやかすぎる活躍で、06-07年は日立の主将をつとめた。
ポジションは「ポイント・ガード」(PG)。まわりの選手がシュートを決めやすいように、流れを読みながら指示をだすゲームメーカーだ。花形のポジションで、「司令塔」とも呼ばれる。
「ルックスだけではなく」とよく紹介されるが、JBLのチームガイドの紹介文はこうだ。
「スピード感あふれるプレーだけでなく、勝負強い3P(3ポイントショット)やフルコートで相手にプレッシャーをかけ続けられるディフェンスもある」
リーグ最高峰のPGとしての実力、また日立を準優勝へと導いた実績を買われて、09年6月、トヨタアルバルクに移籍した。
「日本代表に選ばれている五十嵐選手のスキルが、アルバルクのプレースタイルに融合することにより、いままで以上に早い展開のバスケットボールを皆様に見ていただくことができると考えています。ガードとしてチームをまとめ、優勝に導いてくれることを願っています(棟方HC)」(「アルバルク公式WEBサイト」より)
かくも期待は大きい。
先の専門誌の対談で、五十嵐は、目標を「まずは日本代表に選ばれ続けること。その中で世界レベルに近づくこと」と語り、「あらためて夢は?」と聞かれて、言う。
「バスケットをメジャーにする。JBLで優勝して知ってもらうこともそうだし、サッカーのように日本代表が強くなれば自然とメジャーになると僕は思っていて、結果を残しているからこそ世間も注目して応援したいんだと。それはバスケットも同じ。まずは自分たちが結果を残すことが第一歩だと思っているし、バスケットを知らない人の目に映るのも1つの方法だと思うので、自分から(メディアでも)発信するようにはしている」
06年世界選手権は17位、07年アジア選手権8位、09年アジア選手権10位と、国際大会ではまだ結果がでていない。そう、日本代表が強くなれば、勝ってみせれば、一夜にして「ワー!」となるのが列島環境である。「ニッポン!」コールで満ちるジャパン・バレーのように。
ルックスだけでなく、スピード感あふれるプレーだけでなく――「司令塔」は、バスケットボール日本男子の<未来>へシュートする。
トヨタでの、真新しい背番号は「1」。
写真提供:JBL